金沢電気軌道
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軌道敷設に並行して幹線道路の拡張・近代化を図る意向があった金沢市の協力も取り付け、1912年(明治45年)6月28日、軌道敷設特許を取得に至った[8]。7月22日の発起人会では、男爵本多政以(300株引受)が創立委員長に推され、男爵横山隆俊(1000株引受)、その従兄横山章(1000株引受)、それに横山一平(800株引受)ら9名が創立委員に選任されている[9]。本多と横山は旧加賀藩で家老職を務めた加賀八家の一族である[7]金沢電気軌道初代社長本多政以

しかし特許取得に成功したものの、第一次世界大戦勃発による経済界の混乱、計画に対する不信感などから、金沢との関係に乏しい東京・関西の発起人を中心に離脱が相次ぎ、株式募集すら着手できない状態が続いた[7]。会社設立の中心についても、金沢に地盤を持つ本多政以・横山隆俊らに移行していった[7]。株式の募集は1914年(大正3年)11月にようやく始まる[7]1916年(大正5年)になると行政のバックアップが始まり、中でも山森隆市長は市長命令で市内有力者600人を集めて株式募集を呼びかけ、さらに市職員を動員して広く資金集めに協力させた[8]。本多・横山両家も旧藩関係者へ資金集めに回った結果、同年7月25日に株式募集が終了し、10月29日、ようやく金沢電気軌道株式会社の創立総会開催に至った[8]

設立時の資本金は150万円[8]。株式数は3万株で、筆頭株主は3000株を引き受けた旧藩主前田家の前田利為であった[8]。その他旧藩関係者も多くの株を持ったが、株主全体の9割近くが金沢市内および近郊在住者を主体とする持株10株未満の零細株主であった[7]。社長には本多政以が就任し、前田家の推薦で小塚貞義が専務取締役に就いた[8]。また本社は設立時金沢市広坂通75番地の1に設置されたが[1]、開業後の1919年(大正8年)7月28日付で金沢市上胡桃町52番地へと移転している[10]
市内線第1期線敷設香林坊交差点における軌道敷設工事の様子(1919年6月撮影)

金沢電気軌道の発足当時、金沢市内の道路は旧加賀藩の時代からほとんど変わっておらず旧態依然としたものであった[11]。そこで市街電車の敷設とともに市区改正・道路拡張を行うこととなり、金沢電気軌道・石川県・金沢市3者の費用負担により金沢市が工事を執行するという事業が纏められた[11]犀川浅野川に挟まれた中心市街地の道路が第1期工事として施工され、1917年度(大正6年度)から1919年度(大正8年度)にかけて主要道路の幅員が8(約14.55メートル)に拡張された[11]

電車敷設にあたり、金沢電気軌道では本社・車庫用地として金沢市上胡桃町(現・小将町)の金沢地方裁判所跡地を買収した[12]。道路拡張に続く軌道敷設工事は会社の担当であり[11]、まず第1期線として以下の区間の建設が決まった[13]

金沢駅前より武蔵ヶ辻へ至り右折、香林坊を経て犀川大橋へ達する路線

香林坊で分岐し紺屋坂下(兼六園下)へ達する路線

武蔵ヶ辻より枯木橋(橋場町交差点)を経て浅野川大橋へ達する路線

枯木橋より紺屋坂下を経て金沢病院(現・金沢大学附属病院)の正面へ達する路線

このうち金沢駅前から上胡桃町(車庫)までの区間が最初の路線として1918年(大正7年)10月14日に着工され、12月下旬には竣工[14]。翌1919年1月30日に石川県知事より開業許可を得て[14]2月2日より営業を開始した[12]。次いで雪解けを待って1919年3月11日より軌道敷設工事が再開され、7月9日に全区間竣工[15]。そして7月13日に第1期線全線開通に至った[12]。全線開業にあわせて4日間、車体に大量の電球を取り付けた5台の花電車が祝賀運転され、15日には公会堂にて竣工式典が挙行された[12]

電車開業前、沿線商店街では客足の減少を心配する声があったが、開業が新盆・夜店シーズンと重なったため、電車の見物客が押し寄せてかえって売り上げが増えたという[12]。全通直後の1919年8月、本多政以が社長を退任し、専務の小塚貞義が2代目社長に就任した[16]
市内線第2期線敷設浅野川大橋(1922年竣工)

第1期線の開業とその活況を見て、市街地周辺部へ延びる第2期線建設の早期実現を求める世論が高まった[17]。その一方で、会社設立時の150万円という資本金は第1期線建設費用で消化しており、第2期線建設には増資が必須であった[17]。しかしながら建設費の高騰と会社設立時の株式募集に時間を要した経験を踏まえ、会社経営陣は増資幅を予定の150万円ではなく75万円に圧縮し、第2期線全線着工を先送りにして郊外線との連絡線のみを着工する方針を固めた[17](増資は1920年1月8日付で実施[18])。

ところがこの会社方針は金沢市会の反発を招く[17]。特に先送りが見込まれた浅野川以北の地域選出の議員からは絶対反対の意見が出た[17]。だが電車建設に伴う市区改正費を一部負担する金沢市の側も、第1期線の倍と見積もられた費用をすべて負担することは不可能であった[17]。結局、市区改正費用との兼ね合いから、犀川以南では松金電車鉄道と連絡する野町線ならびに野村兵営に至る野田寺町線を、浅野川以北では大樋線南部(山ノ上町までの区間)を優先的に着工するという方針が市会に提出された[17]。そして市会での議決を経て1920年度から市の市区改正事業が始まった[17]

市内線第2期線はまず1920年(大正9年)10月13日、犀川以南の野町線が着工され、11月15日営業開始許可を得たのち5日間の無賃試乗期間を経て20日より営業を開始した[19]。次いで野田寺町線が翌1921年(大正9年)7月10日に開業[20][21]。浅野川以北では1922年(大正11年)7月13日に大樋線が開業する[20][22]。この段階では石川県が浅野川大橋の工事を施工中のため、大樋線は竣工まで暫定的に電車2両にて独立して運転されていた[22]。大橋上の軌道は同年12月14日に開業し、大樋線の孤立は解消された[23]

浅野川大橋開通の一方、その4か月前の1922年8月3日に豪雨で犀川大橋が流出してしまった[16]。電車専用の仮橋が竣工する12月14日までこの区間は不通となり[23]、翌1923年(大正12年)6月5日から11月27日までの期間も7月中旬の4日間を除いて大橋復旧工事のため線路分断を余儀なくされた[24]


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