金栗四三
[Wikipedia|▼Menu]
また最高気温40°Cという記録的な暑さで、レース途中、折り返し地点には給水所が用意されていたものの、参加者68名中およそ半分が途中棄権し、レース中に倒れて翌日死亡した選手(ポルトガルのフランシスコ・ラザロ)まで発生するなど過酷な状況であった上、金栗はその給水所に立ち寄らず給水していなかった。

マラソン中に消えた日本人の話は、地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていた。金栗はまた、マラソンを途中で止めた理由として、単にソレントゥナ(Sollentuna)のとある家庭で庭でのお茶会に誘われ、ご馳走になってそのままマラソンを中断したという解釈も示された。1920年アントワープオリンピックの金栗(後列右端)。前列中央に団長の嘉納治五郎

当時の金栗はランナーとして最も脂がのっていた時期であり、帰国後すぐに真夏の千葉県館山で「耐熱練習」と称し、2か月にわたり炎天下で走る練習を積み重ね、冬になると「耐寒訓練」として厳寒の中走った。東京高師の研究科に進んでからは、自らを鍛えるだけでなく、広く人材を発掘して発展の土台づくりをする活動も行い、全国の師範学校にいる先輩、後輩に手紙を書いたうえで現地を訪ね、自らの練習法を惜しげもなく公開して長距離走の基本を教えたほか、夏の耐熱練習にさまざまな学校から参加者を集めたのをはじめとして、幅広く多数の選手に声をかける合同練習会をしばしば組織するようになった[8]1914年大正3年)3月に東京高師を卒業して間もない4月10日に石貫村(現玉名市)の医者の娘である春野スヤと結婚した後、神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)、獨逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)、東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)などで地理の教師として教壇に立ちながら[6]、さらに走りに磨きをかけ、同年11月23日の第2回陸上競技会選手権では再び世界記録を大幅に更新する2時間19分20秒3の記録を樹立した。1916年(大正5年)のベルリンオリンピックではメダルが期待されたが第一次世界大戦の勃発で大会そのものが開催中止になり、その後の1920年(大正9年)のアントワープオリンピック1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績はアントワープでは40km近くまで入賞圏内の5位につけながら、雨と寒さというコンディション下で脚を痛め最終的に16位、続くパリでは32.3km地点で途中棄権に終わっている[6]1917年(大正6年)、駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走(京都の三条大橋と東京の江戸城・和田倉門の間、約508キロ、23区間)の関東組のアンカーとして出走する。1920年(大正9年)、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、金栗もこの大会開催のために尽力している[4]。また現役当時は地下足袋で走っていたが、オリンピック出場後、東京の足袋屋・ハリマヤの黒坂辛作・勝蔵親子に頼んで足袋の改良に取り組み、ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた型へと変更、さらにはストックホルムで外国人選手がゴムを底に付けたシューズを履いていたのを見たことがヒントとなってゴム底の「金栗足袋」を開発し、多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走ることとなった[6]

金栗は3度のオリンピック参加を通じて、日本でのスポーツ振興の必要性を痛感した。特に女子も参加してスポーツが盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受け、将来母となる女学生の心身を鍛えることは国の重大事であると指摘し、1921年(大正10年)東京府女子師範学校に勤めると、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、1923年(大正12年)には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に尽力する[6]。さらに地理の教師のかたわら、学校をまわって学生らと一緒に走り、スポーツの重要性を語り、競技会や運動会に顔を出してはマラソン普及に努め、暑さに強くなるように真夏の房総海岸での耐熱練習を繰り返し、心肺機能を高めるため富士山麓での高地トレーニングを続けたほか、日本体育・マラソン普及のため、1919年には下関―東京間約1200kmを教え子の秋葉裕之と2人で20日間で走破[8]、その後樺太―東京間(1922年)、九州一周(1931年)を踏破、全国走破を成し遂げた[6]

1931年(昭和6年)、39歳で故郷の玉名に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走を開催するなど県内外においてマラソン普及に努めた。1936年(昭和11年)には日本での初オリンピック準備のため再度上京し、十文字高等女学校(現・十文字中学校・高等学校)にて教員を務めながら開催準備に奔走するが、日中戦争の戦況悪化のため日本は開催を返上することとなった[6]

1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで私立の青葉女学校に勤務。1945年3月に玉名へ再び帰郷してからは、現地で生涯を過ごした[6]。その一方で、1946年(昭和21年)4月に熊本県体育会(現在の熊本県体育協会)が創設されると、初代の会長に就任。1947年(昭和22年)には、自身の苗字を冠した第1回金栗賞朝日マラソンの開催に漕ぎ着けた[6]。この大会は、数度にわたる開催地・コースの変更や「国際マラソン選手権」の日本初指定を経て、1974年(昭和49年)から福岡国際マラソンに改称。2021年(令和3年)限りで終了することが決まっていたが、実際には運営体制を一新したうえで2022年(令和4年)以降も続けられている。

1953年(昭和28年)にはボストンマラソン日本選手団長として渡米し、選手団の1人である山田敬蔵が当時の世界記録2時間18分51秒で、日本人参加者としては1951年(昭和26年)の田中茂樹以来2年ぶり、同大会日本人2人目となる優勝を成し遂げた。1960年(昭和35年)には熊本で行われた第15回国民体育大会の最終聖火ランナーとなった[6]。また、この間の1948年(昭和23年)には熊本県初代教育委員長に選出されている[6]

1967年(昭和42年)3月、金栗がストックホルムオリンピックで棄権の意思をオリンピック委員会に伝えず、「競技中に失踪し、行方不明」、すなわち現在も走り続けている状態として扱われていたことに気付いたオリンピック委員会が金栗を記念式典でゴールさせることにした。そして、金栗はスウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。招待を受けた金栗は、ストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走り、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた[10]。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている[11]。金栗はゴール後のスピーチで、「長い道のりでした。この間に嫁を娶り、子供6人と孫が10人できました。」とコメントした[10]。なおこの記録は「マラソン完走最長タイム| longest time to complete a marathon」としてギネス世界記録に登録されている[12]

金栗は晩年を故郷の玉名市で過ごし、年老いてなおも朝夕に自宅から小学校まで約800メートルの往復散歩を天候の良し悪しにかかわらず、日課にしていたといい[6]1983年(昭和58年)11月13日に92歳でその生涯を閉じた[1][2]

ストックホルムオリンピックから100年を経た2012年(平成24年)に、金栗のひ孫にあたる男性が金栗を介抱した農家の子孫を訪ねている[13]
オリンピックにおける記録

第5回 ストックホルム大会日本選手団〕(1912年〈明治45年〉 - 1967年〈昭和42年〉) - 最下位(54年8か月6日5時間32分20秒3)[注釈 1]

第7回 アントワープ大会日本選手団〕(1920年〈大正9年〉) - 16位(2時間48分45秒4)

第8回 パリ大会日本選手団〕(1924年〈大正13年〉) - 途中棄権

顕彰
金栗杯

金栗が日本の競走界に多大な功績を残したことを記念した表彰制度として、「金栗四三杯」が富士登山駅伝と箱根駅伝、「金栗四三賞」が福岡国際マラソンに設けられている。

富士登山駅伝では、一般の部の優勝チームに金栗四三杯が贈呈されている。自身が創設に携わった箱根駅伝でも、2004年の第80回大会から、「MVP」に相当する最優秀選手への表彰制度として「金栗四三杯」を新設している。

福岡国際マラソンでは、2022年の大会から運営体制を一新したことを機に、日本人選手内の最上位完走者を表彰する制度として「金栗四三賞」を創設。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef