金星スターズ
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古関裕而セントラル・リーグで「阪神タイガースの歌」と巨人の初代「野球の王者」および3代目の現行「闘魂こめて」、中日の旧「ドラゴンズの歌」、また大映が属したパシフィック・リーグでは初代連盟歌「おおわがパシフィック」および東急→東映の「フライヤーズの歌」を作曲している[5]

毎日との合併後、大毎の球団歌は「わがオリオンズ」に統一された。
チーム成績・記録

Aクラス・3回(1949年?1950年、1953年)

Bクラス・9回(1946年?1948年、1951年?1952年、1954年?1957年)

最多勝 67勝(1949年)

最多敗 94敗(1956年)

最多引分 8分(1951年)

最高勝率 .543(1953年)

最低勝率 .318(1957年)

その他の記録

最小ゲーム差 6.5ゲーム(1953年)

最大ゲーム差 46ゲーム(1954年?1955年)

最多本塁打 130本(1949年)

最小本塁打 8本(1946年)

最高打率 .272(1949年)

最低打率 .213(1957年)

最高防御率 2.67(1953年)

最低防御率 4.15(1949年)

同一球場同一対戦相手の連敗記録21(1954年?1956年、後楽園球場において対
南海ホークス

沢村栄治賞受賞者

1949年ヴィクトル・スタルヒン最多勝利を獲得するなど活躍。同シーズンに最優秀防御率最高勝率を獲得した巨人藤本英雄沢村栄治賞争いをしたが、スタルヒンが沢村賞を受賞する事が出来なかった。
三冠王(投手・打者)
投手三冠王

達成者はいない[6]
打者三冠王

達成者はいない[7]
最優秀選手受賞者(複数回)
投手の複数回受賞者

複数回受賞の達成者はいない[8]
打者の複数回受賞者

複数回受賞の達成者はいない[9]
歴代本拠地

1946-47 特定の本拠地はなし

1948-57
後楽園球場

ただし、1955年京都市西京極球場を準本拠地として公式戦を開いた。また、大映は後楽園球場の運営会社だった後楽園スタヂアムと資本関係にあった。


歴代監督

1946年 - 1947年 :
坪内道則[※ 1]

1948年 - 1956年 : 藤本定義[※ 2][※ 3]

1957年 : 松木謙治郎[※ 4]
^ ここから金星スターズ
^ ここから大映スターズ
^ 1956年は5月31日まで指揮。残り試合は松木謙治郎が代行。
^ ここから大映ユニオンズ

エピソード
前身チームと戦時体制

大映野球の母体の一つである産業軍新愛知新聞社が保有していた名古屋軍が1944年に改称したものだが、この親会社である新愛知新聞社は長年競合関係にあった名古屋新聞社1942年に対等合併して「中部日本新聞社」となった。

名古屋新聞社は1936年にプロ野球球団名古屋金鯱軍を結成していたが、戦局の悪化で1941年翼軍との合同を余儀なくされて大洋軍となり、さらに旧翼軍側の都合で1943年に球団経営は西日本鉄道に肩代わりされていた。従って一方の金鯱軍を手放したのだから名古屋軍も手放すべきだという意見が出た。また、新聞社が営利企業を持つべきではないといった意見も出たため、中部日本新聞社は経営から離れて同社取締役の大島一郎が個人的にスポンサーとなっていたが、結局名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団を引き継いだ。赤嶺は軍需産業の理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)をスポンサーに付け、選手を理研工業の工場従業員として従事させる事で戦中の球団維持に成功した。

1946年、理研工業の解体で拠り所を無くした赤嶺は再度中日の大島一郎をスポンサーに付けることに成功。しかし、スポンサーだったはずの中日は一転して球団経営権にも介入。元来前身の新愛知新聞社が保有していた球団でもあり、元のさやに収まったのだとして、事実上赤嶺から球団経営権を奪還した(現在の中日ドラゴンズ)。


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