1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。
1991年4月19日には毎日新聞社訪朝団へのインタビューに応じた[39][40][41][42]。
1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。
1991年10月5日に生涯最後の外遊である中国訪問[43][44]でケ小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定する[45]。
1991年12月6日、咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可なしに同年11月30日から中国政府が手配[46]した北京首都国際空港経由で電撃訪朝していた統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談[47][48][49][50][51]。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるために世界を驚かせた(ただし、当時の統一教会は韓国大統領盧泰愚の北方外交に呼応して中国など共産圏で事業を手掛けており、北朝鮮との接触もその人脈から始まっている[52])。文鮮明はこの訪朝についてソ連東欧への「神主義」「頭翼思想」の布教や中国でのパンダ自動車事業を例に出して「私の勝共思想は共産主義を殺す思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救済の思想」[53][54]とする声明文を出した。会談では離散家族再会に取り組むこと、核査察を受けること、自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的な窮地を救われる。
1992年1月30日に北朝鮮政府は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが[55]、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し[56][57][58][59]、1994年4月16日に金日成は西側メディアのインタビューで核開発を否定するも[60][61][62][63][64][65][66]、1994年6月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった[67][68]。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、元大統領ジミー・カーターを特使として北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた[69][70]。 経過は不明ながらも、結果として長男の金正日が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。金日成および北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。 金日成の首の後ろには1958年時点からコブがあり[71]、しかも徐々に大きくなっていたため健康を心配する声も上がっていた。金日成が59歳とまだ若かった1971年時点で、金正日が後継者に指名された[72]。北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。 後継者選定については というプロパガンダを徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。 このプロパガンダのあり方は、世襲そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。 金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。 また、三代の世襲も目的にしていたかは定かではないが、金日成は金正日と成尢ヤの結婚に反対したものの、後に娘と娘婿である金敬姫・張成沢夫妻のとりなしを受けて、初孫である金正男を可愛がり[73]、1994年に訪朝した元アメリカ大統領ジミー・カーターにも「自分が一番愛する孫」と金正男を紹介している[73][74]。また、金正日と後妻の高英姫の結婚にも反対[75][76]し、その子の金正恩や金正哲が、平壌から離れた元山で生活させられ、金敬姫・張成沢夫妻によって面会[77]も認められなかったのとは対照的に、誕生日を金日成によって直接祝われた金正男は、謂わば金日成・金正日と同じ長子であるがゆえに、金正日の後継者となりうる「皇太子」の地位が確定したと、当時の側近達は看做していた[78]。
後継者問題
継続革命が必要であるように首領には後継者が必要だ
後継者には最も優秀な人物が就かなければならない
後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない
死去詳細は「金日成の死(英語版
金日成は1994年7月8日午前2時に平安北道香山郡香山官邸(北緯39度58分19秒 東経126度19分17秒 / 北緯39.97194度 東経126.32139度 / 39.97194; 126.32139)[1]で死去した。死亡時には首の後ろにあったコブが野球ボール大にまで大きくなっていた[79]
。北朝鮮政府の公式発表では香山官邸ではなく、平壌の錦繍山議事堂で死去したことになっている。
死去の数日前から金日成への独占インタビューの為、日本人ジャーナリストの中丸薫が北朝鮮へ入国している[80][81][82][83]。