金日成
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なお、亨稷は正義府に関係していたとされる[7]

父親が没した後、金日成は中華民国吉林省吉林市の中国人中学校である毓文中学校(中国語版)に通い[8]、そこで他の学生とともに本格的にマルクス・レーニン主義に触れ、教師で中国人共産主義者の尚鉞(英語版)に強い影響を受け[9]、共産主義の青年学生運動に参加したことで中学校退学を余儀無くされた。
中国共産党入党

金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満洲の朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団だった。1930年中国共産党から派遣された朝鮮人運動家・呉成崙(全光)が、コミンテルンの一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では入党しなかったものと推測されている[10]。金日成の中国共産党の入党は1932年1933年とするものと、2つの記録が中国共産党側の史料に残っている[11]。親友で中国人の張蔚華(中国語版)とともに1932年に入党したともされている[12]。これ以降、金日成は、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加し、さらには1936年から再編された東北抗日聯軍の隊員となるに至った、とされる[注 3]

東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件[注 4]

当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。それにも関わらず金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている[11]
抗日パルチザン活動

1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった[13][14]。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと[15]、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円[16]で、金日成が一人突出していたわけではない。

また、この普天堡襲撃は在満韓人祖国光復会甲山支部(後の朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている[17]

その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後、抗日聯軍は1940年3月11日に安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。苦力およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満洲人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満洲警察・前田隊の追うところとなった[18][19]が、逆に前田隊を待ち伏せして襲撃した。この襲撃による前田隊の損害は140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。このとき、前田隊の隊員はそのほとんどが練度の低い朝鮮人によって構成されていたため、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた[20][21]

このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。

重村智計は、普天堡の戦いは北朝鮮が喧伝しているよりもっと小規模であり、東北抗日聯軍も中国抗日軍との連合軍であったことを指摘している[22]
ソ連への退却1943年10月5日、第88旅団幹部合影。前列右から2人目が金日成、3人目が周保中。

しかし日本側の巧みな帰順工作・討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥って小部隊に分散しての隠密行動を余儀無くされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で生き残っていた直接の上司・魏拯民を置き去りにし、十数名ほどの僅かな部下と共にソビエト連邦沿海州へと逃れた[23]

ソ連に越境した金日成はスパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の周保中が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる[注 5]
帰国後、指導者へ.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}金日成(1946年)1945年10月14日の民衆大会に出席した金日成。後方にはレベジェフ少将らソ連軍幹部が並ぶ1945年12月、ソ連軍民政司令官ロマネンコ少将と会談する金日成。金九と(1948年頃)

1945年8月、ソ連軍北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した[24]。金日成は9月19日ウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした[25]。同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した[26]

金日成はアメリカ統治下の南部に拠点を置き、朴憲永に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指していく。

1945年10月10日には平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任。10月10日は朝鮮労働党創建記念日となっている。

1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、同年8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金?奉が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。

ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した[27]。3月1日、平壌での集会上で手榴弾を投擲されるが、ソ連兵の護衛により一命を取り留めた[28]。翌年2月22日には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。

このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は1970年代に至るまで金日成を苦しめた。


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