当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、ソウル会戦において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる[31]。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。
9月15日、アメリカ軍が仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の7月4日に朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹)[注 6])を疎開させた後、10月11日に平壌を脱出し、中華人民共和国の通化に事実上亡命した[32]。
10月25日に中華人民共和国が中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍および朝鮮人民軍は中朝連合司令部の指揮下に置かれた。中朝連合軍の彭徳懐司令官は朝鮮労働党延安派の朴一禹を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた[33]。
その後、戦局は38度線付近で膠着状態に陥り、休戦交渉が本格化した。1953年2月7日、最高人民会議常任委員会政令により、「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与[34]。同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。
粛清オットー・グローテヴォールらと談笑する金日成(1956年)
反満洲派の粛清詳細は「8月宗派事件」を参照
金日成派は満洲派とも呼ばれる東北抗日聯軍出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。満洲派はかつて中国共産党のパルチザンとソ連軍に加わった成り立ちから、植民地時代から朝鮮で活動していた国内派よりも、当初は延安派やソ連派と友好的であり、金日成と満洲派は、まず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には朴憲永をリーダーとする南労派(国内派の主流と目された一派。ソウルを中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。延安派とソ連派は南労派の粛清を黙視していたが、その後共同して金日成の批判を試みるもその報復で自らも粛清されるに至った(8月宗派事件)。さらに満洲派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。一方で1961年にソ連とソ朝友好協力相互援助条約、中華人民共和国とは中朝友好協力相互援助条約を結んで軍事同盟関係を築くことで中ソとの決定的対立は回避した。
1967年5月には国内北部で活動していた朴金ら甲山派なども粛清し、満洲派が主導権を握るに至った。この頃までに満洲派の中からも金策の変死事件が起こるなどしている。その結果、「朝鮮労働党初代政治委員で生き延びたのは、金日成以外では皆無」と言われるほどの粛清となった[注 7]。 1969年以降、満洲派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光(1977年に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が継続され、金日成の後妻の金聖愛(1993年に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の金英柱(1975年に失脚、1993年に国家副主席として復帰)、叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には政治犯収容所へと送られた。 金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。全体主義体制の整理であるとする立場、満洲派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、金正日後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。 金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。1950年代のうちに社会主義体制(ソ連型社会主義体制)を築き、1960年代末までに満洲派=金日成派独裁体制を完成させた。 1972年4月15日、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、個人崇拝が強まると国外の懸念を生んだ。 12月27日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席の地位が新設されると、翌12月28日、金日成は国家主席に就任した。 新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。 さらに1977年、金日成はマルクス・レーニン主義を創造的に発展させたとする「主体(チュチェ)思想」を国家の公式理念とした。 国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。 1977年7月3日、NHKの取材団が金日成へのインタビューを行い[35][36]、7月13日に「金日成主席単独会見」として放送[37]。 1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。 1980年10月、第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。 1982年11月、錦繍山主席宮会議室で開かれた金日成、金正日、呉振宇、金仲麟の4名による秘密会議のなかで、金日成は「東京を火の海にするのがわれわれの任務」であると語った[38]。これは、ソビエト連邦指導部のなかでもレオニード・ブレジネフが北朝鮮に攻撃兵器を渡すことに消極的であったのに対し、ユーリ・アンドロポフは第三次世界大戦勃発をも辞さない決意を北朝鮮に対し秘密電報で伝えてきたことを受けてのものであった[38]。これに鼓舞された金日成は、韓国の後方基地にあたり、スパイ罪をもたない日本を軍事的に叩き、通常兵器で軍事的優位に立つ韓国を赤化しようと試みた[38]。
満洲派内部の粛清
独裁体制の確立金日成を讃えるプロパガンダ・ポスター
国家主席としてニコラエ・チャウシェスクを迎える金日成(1971年)ドイツ民主共和国訪問の際、エーリッヒ・ホーネッカーと並ぶ金日成(1984年)