金尾稜厳
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以後、第4回から第6回まで当選した[5]

1898年8月3日、第1次大隈内閣により富山県知事に登用された。1899年8月の大火、同年9月の大水害の復旧に尽力。道路の整備、消防力の強化、建築規準の設定などを進めた[8]1900年1月19日、知事を休職[13]。同年9月8日、島根県知事に就任。同年11月の県会で、県金庫に松江銀行と農工銀行を指定する意見書が採択されたが、金尾知事が県会の権限外であるとして取消を命じ、県会が行政裁判所に訴えた。このことから県会との対立が続いた[14]1901年11月16日、金尾知事が中学校の三分校(石西、石東、雲南)設置を約束したにもかかわらず、なんら県会に提案がないことから知事不信任案が可決され、同年11月28日、内務大臣は県会の解散を命じた[15]1902年10月4日、教科書疑獄事件などの関係で知事を休職となった[14][16]。事件では官吏収賄罪に問われ、重禁錮3ヶ月15日の判決を受けた[17]。これにより正五位返上を命じられる[18]

その後、第10回衆議院議員総選挙で返り咲き、第12回第14回総選挙でも当選した[5]
人物

住所は広島県安佐郡三篠町[6]
家族・親族
金尾家


父・法嚴
[6]

妻・カス(1859年 - ?、広島、児玉尚三郎の長女)[6]

長男[6]

[6]

庶子・素子[19](もと[6]1894年 - ?、生母は東京の浅野銀[6]) - 東京府女子師範学校に学び、第十一回卒業、教職にあること8年の後、辞して久本道圓に嫁ぐ[19]。夫妻の間に一男一女が誕生する[19]。夫が亡くなると、自ら文房具商を開始して家計の一助となす[19]

[6]

親戚


実弟・福間最勝(高林坊の住職)[20]

脚注
注釈^ 河野徴(小石)は文久3年(1863年)から明治6年(1873年)まで藩儒として学問所教官を務めている。出典:「広島市饒津神社内河野小石先生碑」

出典^ a b 『衆議院要覧 明治41年12月訂正』履歴議員か341頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年9月1日閲覧。
^ a b c d 『議会制度七十年史 第11』137 - 138頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年9月1日閲覧。
^ a b c 辻岡「僧侶から政治家へ」3頁。
^ 『日本人名大辞典』522頁では「嘉永7年1月18日」。
^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』177頁。
^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第4版』か81頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年9月1日閲覧。
^ 山崎謙「衆議院議員列伝」衆議院議員列伝発行所 1901年
^ a b 『新編日本の歴代知事』425頁。


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