金子堅太郎
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当時のルソー的な自由民権派に対抗する保守漸進の理論がないか元老院副議長の佐々木高行から質問があり、これに答えてエドマンド・バークの名を挙げ、その著作のうち『フランス革命の省察』『新ウィッグから旧ウィッグへの上訴』の2書を名著として紹介する。やがてこれが元田永孚の目を経て、明治天皇に奉呈される。また毎週日曜に参議山田顕義にバークについて講義する。後にこの2書を抄訳し、保守主義の政治思想をまとめた『政治論略』を刊行する。

元老院権閣の総理秘書官に就任、のちに大書記官に昇格。この頃、北海道視察の後に開拓に関する建白書を政府に建議。建白書では、網走集治監網走刑務所)の囚人(思想犯多数)を開拓や道路建設に従事させるように提案した[3]

元老院総理秘書官ののち、太政官権大書記官兼元老院権大書記官、次いで制度取調局御用掛となる。
伊藤博文内閣のもとで1910年頃

1885年以降、内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上毅伊東巳代治らとともに大日本帝国憲法皇室典範、諸法典の起草にあたる[注釈 1]

1887年(明治20年)12月には、福澤諭吉とともにアメリカ・ユニテリアン協会からアーサー・メイ・ナップ牧師を招聘し、ユニテリアン主義の布教ミッションのための調査活動開始を支援した[4]

1889年(明治22年)から翌年にかけて、欧米諸国を視察した。帰国後、日本法律学校(現在の日本大学)初代校長就任。貴族院勅選議員、初代貴族院書記官長。さらに、国際公法学会会員としてスイスジュネーヴでの国際会議に出席。

それからは、第2次伊藤内閣農商務次官第3次伊藤内閣農商務大臣第4次伊藤内閣司法大臣を歴任。農商務次官在任中に製鉄事業調査会の委員長を務め、官営八幡製鐵所の設置を決めている[5]
日露戦争時の日米友好親善

1904年(明治37年)、第1次桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領と面識があった金子は、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて同月末出帆の船で渡米[注釈 2]、ルーズベルト大統領に常に接触するのみならず、全米各地で講演を行い、アメリカ世論に日本の立場を訴えた。

「日本は領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸開放のために戦っている。将来は世界皆兄弟という東洋西洋の聖教の本旨を実現させる希望を日本人は抱いている」

1905年(明治38年)8月、ポーツマス会議(第7回本会議)において、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求め、講和の成立に貢献している[6]。金子が帰国したのは、同年10月のことであった。
晩年

1906年(明治39年)には枢密顧問官に任じられ、自ら「憲法の番人」と称した[7]

日露戦争後は、枢密顧問官のほか、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長を歴任。この間、子爵に叙爵される。また、後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁、帝室編纂局総裁などを歴任し、『明治天皇紀』完成の功により伯爵に昇爵[8]、さらに『維新史』を奉呈する。東京上野日本美術協会大橋翠石百幅展の発起人として開催する。勲一等旭日桐花大綬章を受ける。

生涯にわたり、日米友好のために尽力しており、上述のジュネーヴ国際会議出席後はアメリカを経て帰国しており、帰国後、渡米中に調査したことをまとめて「トラストの利害」「米国経済と日本興業銀行」等を発表。日本において憲法制定の功により男爵となった後、ハーバード大学から憲法制定等の功績により名誉法学博士号(L.L.D)を受けている。米友協会会長、日米協会会長を歴任した後、賀川豊彦松田竹千代三木武夫らとともに「日米同志会」を立ち上げて会長となる。晩年には日米開戦を憂慮していた。

1942年(昭和17年)5月16日、腎盂膀胱炎のため療養先の神奈川県の葉山別邸、恩賜松荘にて死去。享年90。葬儀は同月20日、築地本願寺原嘉道(枢密院議長)が葬儀委員長となって行われた[9]。墓所は青山霊園(1ロ7-5)。
年譜

※日付は明治5年までは旧暦

嘉永6年(1853年)2月4日、福岡藩藩士・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村字四反田に生まれる。幼名は徳太郎。

万延元年(1860年)、金山和蔵に師事。

文久元年(1861年)、正木昌陽に師事。

文久3年(1863年)1月、藩校修猷館に学ぶ。

慶応4年(1868年)4月、父・清蔵を亡くし、家督を相続するが士籍を失う。銃手組に編入され、鉄砲大頭役所使番、中番、勘定所給仕を経て、銃手組の株を購入。

明治2年(1869年)2月、永代士分に列せられ、秋月藩へ遊学。

明治3年(1870年)7月、東京遊学。

明治4年(1871年

1月、藤野正啓の漢学塾に所属。

11月、岩倉使節団に同行し、アメリカ留学。


明治5年(1872年

アップルトン街に下宿して英語習得に励む。

9月 Rice grammar school(小学校レベル)に4年生として編入。


明治6年(1873年)社交性を発揮してダンスに熱心になる。

明治7年(1874年

4月 同学卒業。卒業生代表として演説する。

9月 English High School 2年生に編入。


1876年(明治9年)

2月、ハーバード大学入学準備に入り、上記学校を自己退学し、弁護士オリバー・ホームズに師事し、ヘンリー・スイフトとラスル・クレイの共同法律事務所に通い勉強する。

10月、ハーバード大学入学。留学生仲間の伊沢修二とともに日本人として初めて電話を使う。


1878年(明治11年)

6月、ハーバード大学卒業。

9月、帰国後、都市民権政社の社員を務め、慶應義塾夜間法律科講師となる。

12月、のち東京大学予備門英語教員となる。この頃、共存同衆嚶鳴社に所属し、英米法制度に関する論文作成、陪審員制度の提案、憲法私案の作成、民権運動に参加。


1880年(明治13年)1月、河津祐之沼間守一紹介で元老院に出仕。

4月、元老院権少書記官となる。この頃、元老院副議長・佐々木高行に勧められ、『政治論略』を著す。

9月、外部に別の学校として、一年で閉鎖された同科(夜間法律科)、三?塾の法律経済科、東京攻法館の法律科の三者を統合して移した旧制専修学校の立案・運営に深く参画し、「私擬憲法意見」を起草したが、政府内での軋轢を恐れて講師として出講しなかった[10]


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