金子光晴
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1910年(明治43年/15歳) 200日近く学校を休んだため留年となる。現代文学に関心が向かい、小説家を志望する。

1912年(明治45年/大正元年) 同人誌を発行し、級友に回覧する。

1914年(大正3年) 4月、早稲田大学高等予科文科に入学するが、自然主義文学の空気になじめず、オスカー・ワイルドアルツィバーシェフに影響を受ける。

1915年(大正4年) 2月、早稲田大学を中退。4月に東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学するが8月には退学する。翌9月、慶應義塾大学文学部予科に入学。すさんだ生活を送り、この頃のようすを「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。肺尖カタルにより、3ヵ月ほど休学。丙種で徴兵検査に合格。

1916年(大正5年) 6月、慶應義塾大学を中退。保泉良弼、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめる。ボードレール北原白秋三木露風などの詩を読みふける。7月、石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)。10月、養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける。

1917年(大正6年) 牛込区赤城元町に転居。岐阜関西福江島などへ「目的のない」旅をする。中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)。

1918年(大正7年) ウォルト・ホイットマンエドワード・カーペンターに影響を受ける。鉱山の仕事に着手するが失敗する。川路柳虹に印刷会社を紹介してもらい、自費で詩集『赤土の家』の出版を企画する。12月、養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ。

1919年(大正8年) 1月、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行。同月末、イギリスリバプールに到着する。その後、ロンドン、またベルギーブリュッセルを訪ね、ブリュッセルでは同行人と別れ一人で郊外に下宿。親日家であり、日本の工芸品のコレクターであったイヴァン・ルパージュの厚遇を得る。西洋美術に触れ、落ち着いた読書の日々を送る。

1920年(大正9年) エミール・ヴェルハーレンの詩に強い影響を受ける。5月、ブリュッセルを離れてパリへ。12月、ロンドンで帰国の船に乗る。

1921年(大正10年) 1月、2年余のヨーロッパ旅行から帰国。同人誌『人間』等に詩を発表する。

1922年(大正11年) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる。同人に大山広光、佐藤八郎平野威馬雄ら。3月、ベルギーで書きためた詩の推敲に着手(後に『こがね蟲』の題名をつける)。同人誌『人間』『嵐』に詩を発表。

1923年(大正12年) 7月、詩集『こがね蟲』出版記念会を開く。出席者に西条八十吉田一穂石川淳室生犀星福士幸次郎ら。9月、関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる。のちに兵庫の実妹の嫁ぎ先へ。

1924年(大正13年) 1月、東京に戻る。小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係になる。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現:お茶の水女子大学)を退学。室生犀星の仲人により結婚する。

1925年(大正14年) 3月、長男・乾が誕生する。翻訳で生計を立てるが、困窮した生活が続く。3月、『ブェルハレン詩集』訳(新潮社)。8月、『近代仏蘭西詩集』訳(紅玉堂書店)、モーリス・ルブラン『虎の子』訳(紅玉堂書店、怪盗ルパンシリーズ)を刊行。

1926年(大正15年) 3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす。

1927年(昭和2年) 国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヵ月ほど滞在。横光利一とも合流して交流を深める。この間に三千代が美術評論家の土方定一と恋愛関係に陥る。5月、詩集『鱶沈む』(有明社出版部、森三千代との共著)を刊行。

1928年(昭和3年) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる。9月、三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅に出発。はじめの3ヵ月ほどは大阪に滞在し、後に長崎から上海に渡る(上海にはこれより5ヶ月に渡って滞在)。

1929年(昭和4年) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る。のちにシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタジャワ島へ旅行。11月、一人分のパリまでの旅費が貯まり、三千代を先に旅立たせる。

1930年(昭和5年) 1月、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。のちに金子は「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」と当時の生活について述べている。

1931年(昭和6年) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる。日本画の展覧会を開いて旅費を得、三千代を残してシンガポールへ渡る。

1932年(昭和7年) 4ヵ月ほどマレー半島を旅行する。三千代は4月に単身で帰国し、6月には光晴も帰国。実妹の設立した化粧品会社(モンココ洗粉本舗)で働き生活費を得る。

1933年(昭和8年) 山之口貘との交友がはじまる[1]

1935年(昭和10年) 9月、『文藝』に「鮫」を発表。12月には『中央公論』に「灯台」を発表する。日本の社会体制への批判を込めた詩を次第に発表するようになる。喘息の発作で苦しむことが多くなる。

1937年(昭和12年) 12月、三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する認識を深くする。8月、詩集『鮫』(人文社)を刊行。

1938年(昭和13年) 1月中旬、中国より帰国。3月、吉祥寺に転居する。

1940年(昭和15年) 10月、『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行。

1941年(昭和16年) 4月、アンリ・フォコニエ『馬来』を訳(昭和書房)。7月、『エムデン最期の日』訳(昭和書房)を刊行。

1943年(昭和18年) 12月、『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行。

1944年(昭和19年) 4月、長男の乾が徴兵検査を受ける。11月、召集令状が届いた乾を戦地に送らせないため、気管支カタルを病んでいた乾を雨の中に立たせたりして発作を誘発しようとした。その結果、召集を免れる。12月、一家で山梨県山中湖畔に疎開(この頃、後に『落下傘』で発表する作品群を制作)。

1945年(昭和20年) 再度乾に召集令状が届くが、診断書を持って係官と掛け合い、延期させる。

1946年(昭和21年) 3月、疎開先より吉祥寺に戻る。『コスモス』の同人となる。

1948年(昭和23年) 詩人志望の大河内令子と恋愛関係になり、この後三千代との間で、離婚と入籍を繰り返す。4月に詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、9月には詩集『蛾』(北斗書院)を刊行。

1949年(昭和24年) 三千代が関節リウマチに罹り、闘病生活を送る。5月に詩集『女たちのエレジー』(創元社)、12月には詩集『鬼の児の唄』(十字屋書店)を刊行。

1950年(昭和25年) 6月、『かえれ湖』(文林社)を刊行。

1951年(昭和26年) 4月に『金子光晴詩集』(創元社)、6月には詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行。

1952年(昭和27年) 5月に詩集『悪の華』(宝文社)、12月には詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行。

1954年(昭和29年) 1月、『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する。6月、『現代詩の鑑賞』(河出書房)を刊行。

1955年(昭和30年) 7月、三千代とともに札幌医大文芸部主催の会で講演する。1月、詩集『非情』(新潮社)を刊行。

1956年(昭和31年) 5月、詩集『水勢』(東京創元社)を刊行。

1957年(昭和32年) 8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行。

1959年(昭和34年) 10月に『日本人について』(春秋社)、12月には『日本の芸術について』(春秋社)を刊行。

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