金子信雄
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20歳の頃に文学座に入所すると、先輩たちから“金子(かねこ)”に因んで“ネコちゃん”と呼ばれるようになった[2]。先輩女優で後に妻となった丹阿彌谷津子は後年、「入所した頃の金子は、丸坊主にいつも白絣を着ていて蕗谷虹児の描く挿絵のような青年だった」と回想している[2]。同じく先輩の美男子俳優だった森雅之からは、「俺に似てる奴が入ってきた」と言われ、可愛がられた[2]。また、当時から料理上手で劇団の旅公演で自慢の腕を奮ったことで、先輩の杉村春子などから重宝された[2]

上記の通り料理好きなため、仕事先でも市場へ足を運ぶことがよくあった。ある時、福岡市での仕事が終わってから市場へ出かけたところ、新鮮なサバを見つけたことから「家族と食べよう」と思い、当初予約していた翌日の朝一番の羽田便を急遽キャンセルし、その日の最終便の飛行機で自宅へ戻った。そのキャンセルした便は、1982年昭和57年)2月9日羽田沖で発生した日本航空350便墜落事故にあたる便となったため、金子は結果的に難を逃れる形となった。金子が予約していた座席は、特に損傷が激しく死者が多く出た1列目であった。

文学座時代の旅公演では劇団用とは別に食材を各地の闇市で仕入れ、東京の物は地方で、地方の物は東京でという風に高く売って生活費の足しにしていた。山本薩夫監督はこの話を面白がり、1952年の映画『真空地帯』で、闇市に横流しする金子軍曹役をあてがった[2]。ちなみに本人は後年、「芝居をやっていなかったら、きっと小佐野賢治みたいな実業家になってた」と語っていたという[2]

映画『仁義なき戦い』の山守義雄役では、ヤクザの親分ながら人間味溢れる演技で[注 1]人気となった[2]。ちなみに山守の赤っ鼻のメイクは、金子の発案によるもの。当初、同役は三國連太郎が演じる予定だったが、東映の社長・岡田茂の「暗い親分はいかん」の一声で急遽金子に決まった[2]。また、1974年の舞台『仁義なき戦い』では、企画から関わった[2]

1992年放送の深夜番組『EXテレビ』「芸能才人図鑑」のコーナーで金子がゲスト出演し、『仁義なき戦い』の挿話を語った時に劇中における金子扮する山守義雄親分のインパクトが大きく、『山口組三代目』の撮影で出入りしていた山口組三代目・田岡一雄が本作を鑑賞した後、金子の芝居を観て「あら(あれは)、モノホン(本物)だ」という感想をもらしていたことを関係者づてで聞いたことを披露している。また公開当時、新幹線での移動中に金子扮する山守義雄のモデルである山村辰雄の舎弟であった山田久(第五部『仁義なき戦い 完結篇』の登場人物で北大路欣也が演じる松村保のモデル)に遭遇し、大勢の子分を引き連れていた山田から「(子分に対して)お前ら、これが俺の親分だ。あいさつしろ」と車内で紹介されてあいさつされた。金子は「おれもどういう顔をしていいのかわからなかった」と語り、周囲の乗客から好奇のまなざしで見られていたこともあって困惑と恐縮のしきりであったと披露している。

役者デビューから数年間は、二枚目路線で活動していたが、1977年の『日本映画俳優全史 男優編』において以下のように評されている。「白面の繊細な若きウェルテルから数年後、日活映画ではすっかり世俗の汚れを身に着けていた」[2]

舞台でも奔放な演技で異彩を放ち、1975年に上演された『喜劇にぎにぎ』では、本番中に共演者の植木等相手にアドリブ演技をしたり色々ないたずらをしていた[2]

本人は演技について、「悪役ってのは一面的じゃないから楽しいんだ。人には必ず他人から見たら滑稽だったり、変に見えるところがある。それを膨らませて演じなきゃならない」と語っていた[2]。一部媒体では、「金子の憎まれ役の演技は現実にいそうな“生きた悪役”であり、それが魅力的だった」とも評されている[2]。次男によると、金子の口癖は「結局、生身の人間が一番面白い」だった[2]

女優の山本陽子によると、1966年に共演したNHKのドラマ『太郎』の会議室のシーンでは、金子は「こんな長いセリフ覚えられねえよ」と言って靴下を脱ぎ始めた。するとカメラに映らないよう床においた台本を、足の指で器用にめくりながら本番に臨んだという[2]。また、山本とはお互いに料理好きなことから、以降共演するたびに食事に誘っては美味しい料理の話題や家での調理方法について会話を楽しんだという[2]

先述の通り、文学好きなことから井伏鱒二とは飲み仲間で、長野県蓼科にあった井伏の別荘にもよく訪れた[2]。また、同世代の司馬遼太郎池波正太郎とも親交があった[2]

晩年は、次男からパリ土産としてもらったステッキ(柄の部分が“裸で仰向けになって寝そべる女性”を模したもの)を愛用していた[2]

出演
映画『若い人たち』(1954年)『自分の穴の中で』(1955年)ポスター(右下)

七色の花(1950年、東横映画) - 加島

銀座の踊り子 (1950年、東宝)

わが一高時代の犯罪(1951年、東映) - 加藤清

生きる(1952年、東宝) - 渡辺光男

山びこ学校(1952年、八木プロ) - 田口

真空地帯(1952年、新星映画) - 金子軍曹

魚河岸の石松シリーズ(東映) - 上海の辰

魚河岸の石松(1953年)

続々魚河岸の石松(1953年)


雲ながるる果てに(1953年、重宗プロ) - 岡村中尉

赤線基地(1953年、東宝) - 河那辺杉男

女の園(1954年、松竹) - 平戸喜平

足摺岬(1954年、近代映画協会) - 西野

若い人たち(1954年、全国銀行従業員組合) - 戸川健一

山の音(1954年、東宝) - 夫相原

銀座の女(1955年、日活) - 長畑医師

七つボタン(1955年、日活) - 軍医長志賀大尉

夏目漱石の三四郎(1955年、東宝) - 原口画伯

自分の穴の中で(1955年、日活) - 志賀順二郎

あした来る人(1955年、日活) - 三村明

浮雲(1955年、東宝) - 仏印の所員・加納

続・警察日記(1955年、日活) - 早船記者

(1955年、近代映画協会)

女優(1956年、近代映画協会)

丹下左膳シリーズ(日活) - 諏訪栄三郎

丹下左膳 乾竜の巻(1956年)

丹下左膳 坤龍の巻(1956年)

丹下左膳 完結篇(1956年)


神阪四郎の犯罪(1956年、日活) - 検事

火の鳥(1956年、日活) - 富士監督

逆光線(1956年、日活) - 小松教授

隣りの嫁(1956年、日活) - 小手良造

夏の嵐(1956年、日活) - 城戸

沖縄の民(1956年、日活) - 福地一郎

飢える魂 正・続篇(1956年、日活) - 味岡礼司

月蝕(1956年、日活) - 武井

8時間の恐怖(1957年、日活) - 森公作

今日のいのち(1957年、日活) - 滝川晋平

幕末太陽傳(1957年、日活) - 相模屋楼主伝兵衛

九人の死刑囚(1957年、日活) - バルさん

嵐を呼ぶ男(1957年、日活) - 左京徹

心と肉体の旅(1958年、日活) - 正宗監督

夜の鼓(1958年、現代ぷろ) - 磯部床右衛門

素晴らしき男性(1958年、日活) - 吉村幹也

風速40米(1958年、日活) - 早田勇造

影なき声(1958年、日活) - 川井

嵐を呼ぶ友情(1959年、日活) - 児玉

今日に生きる(1959年、日活) - 三国伸介

群集の中の太陽(1959年、日活) - 権堂

山と谷と雲(1959年、日活) - 牧戸一郎

南国土佐を後にして(1959年、日活) - 大川

清水の暴れん坊(1959年、日活) - 船越


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