金大中事件
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アメリカ合衆国の『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』の記事によると「朴正煕と関係の深かった、韓国人ヤクザの町井久之(鄭建永〈チョン・ゴンヨン〉東声会会長)が、ホテルのフロアをほとんどすべて借り切り、KCIAに協力した」と掲載した。「ニューズウィーク」東京支局長バーナード・クライシャーは、アメリカ合衆国の本社に「町井久之はKCIAと緊密に行動を共にし事件の背後にいた。しかし日本のどの新聞もこのことを取り上げない。それは町井の組が自分達を誹謗する者を、(日本人でさえ)拷問し殺すことさえ厭わないからだ」との記事を送っている。

韓国政府が、金大中を中傷する情報を日本の新聞社に流す役割をしていた柳川次郎(梁元錫〈ヤン・ウォンソク〉山口組系柳川組組長)も関与。日韓関連の著書が多いジャーナリスト五島隆夫によると「柳川は日本の暗黒街の他の人物と同様に、児玉誉士夫(自民党の後援者・右翼黒幕)を通じて韓国政府と接触をとった」という。

また、元陸上自衛隊3佐で、陸上幕僚監部第二部別班などを経て退官後に興信所を営んでいた坪山晃三にも、拉致設定の依頼が金東雲からあったが、愛国心から坪山は拒否し、当時の内閣官房副長官後藤田正晴から、しばらく身を隠していろと忠告され、伊豆半島に潜伏していた。
事件のその後
文世光事件と朴正煕暗殺事件

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内では反韓感情が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セカン)が朴正煕殺害を試み、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・チョンキュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭(キム・ジェギュ)が、警護室長に就任して権勢を振るうようになった車智K(チャ・ジチョル)に対する反感から、1979年10月に朴と車を酒席で射殺する朴正煕暗殺事件を引き起こして朴政権の崩壊の引き金を引くとともに、その事件を率先して調査した国軍保安司令官の全斗煥(チョン・ドゥファン)の台頭を生むきっかけとなった。
日本に対する主権侵害

同事件について、日本政府は主権侵害に対する韓国政府の謝罪と、日本捜査当局による調査を要求していたが、同年11月の金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(当時)の訪日と1975年7月の宮澤喜一外相(同)の訪韓で政治決着を図り、韓国側の捜査打ち切りを確認したが、韓国政府はKCIA職員かどうかも認めず不起訴処分とし、国家機関の関与を全面否定していた。

後年、大統領になった金大中はこの事件を一切不問にするとの立場を明らかにし、韓国政府に対する賠償請求などに発展するおそれのある真相究明を露骨に牽制した。また、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が盧武鉉政権により公開(2006年2月5日)され、日韓両政府が両国関係に配慮した政治決着で穏便に事を済ませようとしていたことが明らかになった。『文藝春秋』2001年2月号の記事[要文献特定詳細情報]によると「田中角栄首相が、政治決着で解決を探る朴大統領側から少なくとも現金4億円を受け取っていた」と現金授受の場に同席した木村博保元新潟県議が証言している。

また娘の田中眞紀子元外務大臣によると、事前に田中角栄は「殺人をしないこと」を条件に、拉致することを了承済であったという。但し角栄の当時の対応については「金大中を殺害するつもりなら爆破するぞ」と強く殺害の中止を求めたという説と、事なかれ主義的に拉致を認めたという説がある[要出典]。

2006年7月26日韓国政府は韓国中央情報部 (KCIA) の組織的犯行だったとする結論を出し、国家機関が関与したことを初めて政府として認めた。2007年10月14日北海道新聞によると、「当初金氏を日本の韓国系暴力団に依頼して暗殺することがKCIA内で検討されたが、成功が困難と判断して断念したことを元KCIA職員が証言した」との記事を掲載した。なお、元朴大統領の側近はこの証言を否定している。拉致の目的は金の海外での反政府活動を抑制するためだったと別の元KCIA職員が証言し、殺害計画の事実を否定した。

同年10月24日国家情報院 (NIS) の過去事件真実究明委員会は、当時のKCIAによる組織的な犯行だったとする報告書を発表し、韓国政府として事件への関与を初めて公式に認め、柳明垣駐日大使は日本国に陳謝をした[2]

なお、これに対し日本国政府は、日本の主権侵害に対する公式謝罪と日本の捜査当局による関係者の聴取を求めたが、2021年現在まで正式な韓国政府による謝罪はない。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語音読みにする慣例があった。李承晩ラインなども同じである。
^ なお、当時韓国軍内には朴政権の軍内支持派として構成されていた秘密結社「ハナフェ(ハナ会・一心会)」が存在しており、尹が事実上の後見人となっていた。この事件でハナフェの存在が発覚したが、朴正煕は軍内部の動向を把握するためハナフェを解体せず事実上黙認し、尹に近いメンバーが退役処分となるだけだった。この結果、ハナフェの創立メンバーで、実質的なリーダーであった全斗煥(後の第11・12代韓国大統領)の地位が高まることとなる。

出典^ “暴力団への殺害依頼検討 金大中事件前にKCIA”. 47news. (2007年10月13日). https://web.archive.org/web/20071015025049/http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007101301000306.html 2014年4月12日閲覧。 
^ “金大中事件、韓国が日本に24日陳謝”. 日本経済新聞. (2007年10月24日). ⇒オリジナルの2007年10月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071024152639/http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20071024AT2M2302O23102007.html 2015年6月23日閲覧。


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