金元鳳
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1930年朝鮮共産党再建同盟を組織して[疑問点ノート]。

1931年に勃発した満州事変を契機に金元鳳ら義烈団指導部は、東北義勇軍後援会や東北難民救済会などの中国人抗日運動団体と関係を結ぶ一方、中国側との合作を模索していた[5]。義烈団は三民主義力行社を通じて中国側との交渉を展開し、金元鳳は中国国民政府に「中韓に関する建議」「朝鮮革命計画書」などを提出して韓中合作と反満抗日を掲げながら中国側の支援と協力を交渉した[5]。黄埔軍官学校出身者の積極的な協力を受けて蒋介石の承認を受け、三民主義力行社民族運動委員会が金元鳳に対する支援を担当し、財政をはじめとする積極的な支援を受けることになった[5]

1932年10月20日、南京市郊外の善祠廟(江寧区湯山)で朝鮮革命軍事政治幹部学校が開校、革命要員募集と養成を行なった[6][7]。開校以降、日本の厳重な監視と追跡を避けるため、校舎の移転を繰り返していたが、3年間で3期生まで募集し、教育を実施して125名の軍事幹部を養成した[8]

幹部学校卒業生は朝鮮国内と満州地域に派遣され、特殊工作任務や義烈団の組織拡大や入校生募集活動などを展開した[8]。これにより組織が拡大することもあったが、特派工作員の半数近い人員が検挙もしくは離脱したため、多くの人的損失があった[8]。これら幹部学校卒業生は事実上金元鳳の勢力基盤となり、1930年代半ば以降、中国関内の独立運動陣営で金元鳳が主要指導者としての地位を確保することになったのは、このような人的基盤が1つの背景となったためである[9]

1935年、金奎植らの米州韓人独立党を吸収し朝鮮民族革命党を再結成するも、趙素ミ池青天の脱退など間もなく分裂。

1937年、金元鳳は、一時的に安楽な生活を送れるようになった。当時動向を把握していた朝鮮総督府特務機関の報告によれば、金元鳳は自家用車を所有しており、臨時政府よりは張学良一派から多くの資金を受けていたとされる[10]。1937年7月10日中華民国政府の招きにより、中国高官の会議場である南徴西郊の廬山を訪れる。廬山には金九などが来ており、中国政府側代表者は日本を相手取り統一戦線を結成すべきだと説得した。帰還する前、中国政府代表者から、使命を完遂するのに必要な巨額の資金援助を受けた。

1937年11月2日、朝鮮民族革命党と独立運動家の金山らの朝鮮民族解放同盟、鄭華岩らの朝鮮アナーキスト連盟を統合し、朝鮮民族前線連盟を編成。

1937年12月1日、朝鮮民族革命党主導で募集された90余名を中央陸軍軍官学校特別訓練班第4中隊に入校させる[11]。彼らは1938年5月24日に卒業した後、金弘壹に引率され、党本部のある漢口に到着して朝鮮民族革命党に参加した[12]

1938年10月には、訓練を重ねた青年たちを糾合して、中国・漢口から、朝鮮民族前線連盟傘下の抗日軍事組織・朝鮮義勇隊を組織・編成。司令官に就任した。部隊員には元革命党員のほか、のちには朝鮮民族前衛同盟党員らも編入した。

1941年3月中旬から5月下旬にかけて朝鮮義勇隊の多くが黄河を渡って中国共産党地域の延安に進出した[13]。この華北進出は中国当局も後で知ったほど密かに行われ、朝鮮義勇隊を支援していた中国当局は大きな衝撃を受けた[13]。この事件で金元鳳に対する信認は低下し、それまで金九と金元鳳を通じて行われていた2つの支援窓口を、金九を中心とする臨時政府側に単一化することになった[13]

1942年7月、朝鮮義勇隊は光復軍に編入。この過程で金元鳳は自身を光復軍副司令にすることと編入される義勇隊を第1支隊にすることを要求した[14]

1942年冬、日本語を駆使できる人員の必要性からインド駐留イギリス軍総司令部は朝鮮民族革命党に工作人員の派遣を要請し、総書記だった金元鳳はチェ・ソンオ(???)と朱セミン(???)をインドに派遣した[15]。イギリス軍は派遣した2人の活動に満足してより多くの人員を要請、これがきっかけとなり印緬戦区工作隊が派遣されることになった[15]

1942年12月5日、正式に光復軍総司令部副司令兼第1支隊長に就任[16]。後方地域の重慶に位置していたこと、朝鮮民族革命党が臨時政府に参加することで軍事活動より政治活動に注力したことから、第1支隊は大きく発展することは無かった[17]


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