金の卵_(労働者)
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次男など年少の男性は家督相続したである長男の扶養家族となっていた。次男以下は農業の手伝いをするという社会だった。農村では農家の次男・三男について、就職などの雇用問題や、結婚して家庭生活を過ごせるかの家族問題があった。東北地方などの農村では一家の平均兄弟数が6人以上と多く人口が過剰であり、人手不足の都市部と人口爆発の農村部の利害が一致した。また、1960年前後にはエネルギー革命が起こってエネルギー源が国内産の石炭から外国産の石油に変わったために国内の炭鉱の多くが閉山に追い込まれ、石炭産業という基幹産業を失った旧産炭地においても余剰人口が急増した。これらの旧産炭地の青少年層も都市部への新たな労働力供給源となった。安い給料で文句を言わず働いてくれる若い人間を京浜工業地帯中京工業地帯の上野駅でノボリを立てて歓迎する雇い主が求めた結果、1950代に15歳から24歳の働き盛りに東京都の人口が一挙に100万人近くも急増する人口の大移動が起きた[13]
教育学的要因
進学率の問題として、高度経済成長期の日本は中卒者および中卒見込者の高校進学率ですら半数程度であり、当時の大学進学率に至っては短期大学を含めても1割程度でしかなく、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層以上の通う上級学校」とみなされていた。このため高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であり、また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。
経済学的要因
農業・林業・漁業の第一次産業が中心の社会で自営業が多かったこともある。全日制高校に進学して普通の環境で勉強したくても家庭の事情で進学できず、やむをえず定時制高校に進学する若者がたくさんいた。彼らは町工場や商店で働き、中卒労働者の若者が井沢八郎の『あゝ上野駅』の歌に共感したことに象徴されるように東北地方九州地方から4大工業地帯を目指して集団就職列車で都会に向かい、15歳で経済的に自立して社会人となり実質的に成人した。
金の卵(きんのたまご)

日本高度経済成長を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校卒業までであった義務教育の期間が中学校卒業までの9年間に延長された。この学制改革を契機に、戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。

戦前の高等小学校(基本は2年制)が1948年に新制中学として義務教育化されたことで、中学卒業後すぐに社会に出る若者が生まれ、彼らが金の卵と呼ばれた。後には、「ダイヤモンド」、「月の石」などとも言われたとされる[9]

高度経済成長を支えた「金の卵」であったが、学力が高いにもかかわらず家庭の経済的理由で全日制高校進学が困難となった若者も多く、公立中学校卒業後に企業で働きながら定時制高校通信制高校に進学することも多かった。さらに大学の夜間学部通信教育部に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であったことと、仕事と学業の両立が難しいことから、定時制高校のみならず、仕事も(15 - 22%の高確率で)やめるものもいた[14]。中卒・高卒の男女は大卒と比べ給与が低く、社宅など福利厚生の面でも大きな差があった。

1964年(昭和39年)に「金の卵」の言葉が流行語となった。
生活環境

公共職業安定所からも農村や地方の中学校に求人を出していた。求人倍率も3.3倍前後の高倍率であり人手不足であった。企業側から出向いて勧誘を行い、賃金や厚生施設を充実させ[15]、また高度な技術を習得させた。

職種としてはブルーカラー(特に製造業)やサービス業(特に商店や飲食店)での単純労働が主体であり、男子の中卒労働者の統計結果は工員が過半数を占め、次に多いのは職人であり、次に多いのは店員の順番であり、女子の中卒労働者の統計は工員が4割で最多であり、次に多いのは店員であり、続いて事務員の順で多かった。男子とは異なり、女子はほとんどが25歳までに結婚退職する時代であったため、工場での補助作業や事務などといった補助的な職種に就く者が多かった。

労働条件や生活環境もかなり厳しく、離職転職者も多かった[1]。各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境であった。

若くしてふるさとから遠く離れ、孤独感や郷愁にかられることの多かったと考えられる地方出身者たちは、同様の境遇に置かれた者同士の交流を切望し、「若い根っこの会」に代表される各種のサークル活動が見られた。
影響

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出典検索?: "集団就職" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年1月)

都市部の人口の増加と村落部の人口減少、それに伴って各種の影響があった。

安い労働力を大量に供給する集団就職によって日本の高度経済成長が支えられたと言える。また、1967年(昭和42年)の美濃部亮吉東京都知事の誕生を皮切りに1970年代後半まで大都市を中心に見られた革新首長の支持基盤になったとも言われている。

池田内閣は人づくり政策を発表して、教育に力を入れた。技術革新のため知識を備えた高卒以上の若い労働力が必要となり、1966年(昭和41年)度の中央教育審議会の答申では高等学校を少数のエリートコースと、技術労働者養成コースにふるい分けることが主張された[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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