SF関連の活動は以下の通り。
世界有数のパルプ・マガジンの収集・研究家であり(当人によれば「東洋一」)、SF史の研究書を何冊も刊行した。またパルプ・マガジンにとどまらず、古いSF雑誌の素晴らしいカバーアートを紹介する本も多数刊行している。伊藤典夫と、SF書誌を研究するファングループ「SFセミナー」を結成していたこともある[9]。
海外SF、特にスペースオペラを多数翻訳・紹介することにより、『SFマガジン』初代編集長の福島正実が目指した「洗練されたハイブロウな文学路線」とは別の、「奇想天外な娯楽SF」の楽しさを知らせ、SFファン層の拡大に大きく貢献した。特に、「べらんめえ口調」などを使う、登場人物たちの人間味あふれる会話は、伊藤典夫をして「翻訳とも創作ともつかない」独特のものと評させた[10]。
しゃれで名乗った「宇宙軍大元帥」の称号が縁で、1977年に設立されたSFファングループ「宇宙軍」の相談役(最高顧問)となる。
映画『スター・ウォーズ』に熱狂し、『スター・ウォーズ』関連本の翻訳や、テレビ放送時の監修などを担当。
SF作家として、人情味あふれるスペース・オペラ《銀河乞食軍団》シリーズや、処女作「レモン月夜の宇宙船」に代表される「TVマンにしてSFマニアの野田昌宏」を主人公としたロマンあふれる虚実皮膜の短編群などを執筆。また、長年にわたり『SFマガジン』にコラムを執筆し、最後まで「ファンにSFの楽しさを伝える」内容であった。
「スタジオぬえ」創設当時、野田が翻訳刊行していたA・バートラム・チャンドラーのスペース・オペラ「銀河辺境シリーズ」の挿絵及びメカ設定を「スタジオぬえ」に依頼し、日本にSFアートを根付かせるよう応援した。また、本人の似顔絵のほとんどを加藤に描かせていた。
著書『スペース・オペラの書き方』では、スペース・オペラにとどまらない、アイディアやシチュエーション、キャラクターなどを小説にまとめあげていく創作方法を、丁寧に説いた。
宇宙開発、特にNASAに関するレポートを『SFマガジン』をはじめとする多数の媒体に発表し、宇宙開発の啓蒙につとめた。
家族・親族
政治家の麻生太郎は従弟(野田昌宏の母・ツヤ子の父は麻生太郎 (明治時代)で、麻生太郎の父・麻生太賀吉の妹にあたる)[11]。また、母を通して、多くの知名人と親戚関係になる。
父の養父・野田勢次郎は農商務省に勤務した地質学者であり、妻[注釈 1]が麻生太郎(政治家・麻生太郎の同名の祖父)の妻の姉だった関係で、麻生太吉の依頼で麻生商店に入社して実業家としても活動した[12]。
父の野田健三郎は那須藤十郎・榮夫妻の子として生まれ[11]、母方の叔父・野田勢次郎の養子となった[11]。九州大学教授、電気工学研究者。
昌宏の母・ツヤ子の母と健三郎の養母が姉妹だったので[11]、昌宏の両親は戸籍上「いとこどうし」が結婚したことになる。詳細は麻生太郎の記事「家系」の項を参照のこと。
昌宏の弟・玲二郎は物理学者・菊池正士の次女と結婚した[11]。正士の父で数学者・政治家として活動した菊池大麓は箕作秋坪の次男として生まれ父・秋坪の実家・菊池家の養嗣子となったため[13]、野田家は菊池家を通じて日本最大の学者一族・箕作家と姻戚関係で結ばれており[14]、野田昌宏の弟は箕作阮甫の玄孫と結婚したことになる[注釈 2]。
叔父(父の弟)に児童文学者の那須辰造[11]。
エピソード
生涯独身で、自宅はコレクションの海外SF雑誌、洋書であふれかえっていた。様々なマニアックなコレクターたちの自宅を訪問した本『魔窟ちゃん訪問』(伊藤ガビン、アスペクト)でも、「最強の魔窟」として紹介されている。
気さくで親分肌の人柄で、またトークもうまく、SF大会などのSFファンの集まりで「SFアート」のスライド・ショーをしたり、数々のイベントに顔を出して多くのSFファンたちと会話を交わした。また一面識もないファンから質問・相談にも丁寧な返事を書くなどもして、SFファンたちから非常に慕われた。
「SFはやっぱり絵だねぇ」という有名な台詞を放った。
その文章は独特のユーモラスな語り口で「ノダ節」と呼ばれた。
「宇宙軍大元帥」という愛称は、『SFマガジン』1973年10月増刊号に掲載された、野田自身が書いたパロディ小説風エッセイ「キャプテンたずねて三光年」の中に登場する作中人物・野田昌宏の名刺に、洒落で刷り込まれていた肩書きの一部[注釈 3]。