野津道貫
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西南戦争の折、苦渋の中でもなお桐野や西郷と戦ったのには、このときの無念さが背景にあるのかも知れない。

戊辰戦争宇都宮城戦で大鳥圭介率いる幕府軍と対峙した野津は、会戦まもなく戦わずして兵を下げた。そのことを他の薩摩藩士に誹られると「自分は大鳥の訳本で西洋兵学を学んだ。間接的とはいえ彼は師であるので恩に報いるため兵を引いたのだ」と説明した。

薩英戦争において大山巌らと共に英国艦船に突入しようとしたほど勇猛で知られていた野津だが、日本の内戦である戊辰戦争には内心乗り気でなかったらしく「うつ人もうたるる人もあはれなり ともに御国の人と思へば」と詠い、この戦いを嘆いた。しかし皮肉なことに、この時の野津の活躍ぶりが高く評価されたため、この後、薩摩人の野津にとってはさらに辛い西南戦争で否応なく官軍主力を預かることになる。

二本松の戦いにて大壇口進軍の際、番所前の茶屋にて待ち構えていた六番組大砲方銃士隊の山岡栄治恵行26歳、青山助之丞正誼21歳の2名の襲撃を受け、部下9名以上を斃された。明治31年、同地を訪れた野津は2名を称賛し、明治33年には二勇士戦死之碑を建立している[8]

西南戦争では兄・鎮雄とともに、田原坂の戦いなどで大きな戦功を挙げ、後の地位を確たるものにした。しかし、野津はかつての師・西郷隆盛や同郷同輩と戦い、自らの部下も多く失ったこの戦いがよほど心痛だったらしく「田原坂では刀帯で弾が止まって命拾いした」などと断片を述べる程度でほとんど沈黙してしまった。一方でひそかに戦死した部下の名前を連ねて掛け軸にし、居室に掲げて毎日弔っていたという。

1866年に兄・鎮雄の子である志和が死去した[9]後、兄夫婦に子ができなかったため道貫が養子になりその名跡(男爵位)を継いでいる。[10]次男に兄と同じ名を付けたのはそのためである。自分の家系は長男、鎮虎に継がせ分家とした。[11]

野津は日清戦争に当初第5師団長として従軍し、山縣有朋が病で退いた後は第1軍司令官に就いた(第2軍司令官は大山巌、野津の後任師団長は奥保鞏)。野津は奇襲の名手としてこの戦役最大の戦功を挙げ、もともと野津を気に入っていた明治天皇などは「朕深ク之ヲ嘉賞ス」など異例の三度の勅語をもって賞賛した。
日露戦争における二元帥六大将
(左から2人目が野津道貫)

日露戦争開戦となり、満洲軍総司令官として当初は大本営を統括するはずだった大山が就任するにあたり、山縣が「出先(満洲)は野津に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どんのほうがいいでしょう」と答えた。大本営首脳部では野津・奥・黒木・乃木の軍司令官の中では野津を筆頭格とみていたようである。

野津と黒木為はともに鳥羽・伏見の戦い以来の古参であり、お互いを意識し合うライバル関係にあるといわれ、大山もそのことを気遣って自らが満洲軍総司令官の任に就いたのであるが、黒木第1軍が日本陸軍の先鋒として鴨緑江に進軍することが決定した際、野津は自ら黒木軍の司令部を訪れた。黒木は外出して不在であったが野津は「黒木に渡してくれ」と、日清戦争時に自分が使っていた鴨緑江周辺の地図を黒木軍参謀長の藤井茂太に渡した。

歴戦の猛将であるだけでなく大の頑固者として名のとどろいていた野津の参謀長については、並大抵の人物の意見具申では聞き入れられまいと人選が難航した。そこで上原勇作ならば、知略、格(当時少将)ともに申し分なく、なにより野津の娘婿だから大丈夫だろうということで人事が決定した。しかし、名参謀の上原を以てしても野津を抑えきるのは容易ではなく、川村景明中将(当時)を激怒させて野津の身代わりに上原が2回叱責されている。

上原は17歳から野津家で書生をしていた。兄鎮雄が石本新六を支援していたことに対抗し、上原を陸軍幼年学校に入校させようとする。しかし、上原の年齢を失念していたため規定年齢(20歳)により入校は許可されなかった。あわてた野津は上原の年齢を1年誤魔化し、さらに編入という形で入校させている。上原の仏語の師であった武田成章が幼年学校長であったのが幸いした。士官学校に進学時、野津は上原に今後いかに工兵が重要となるかを説き「日本工兵をお前が創るのだ」と上原を工兵科に進学させた。それまで上原は砲兵科を希望していたため、同期生は皆驚いたという。野津の先見を証明するかのように、旅順要塞に対峙した乃木第3軍は工兵を上手く使えず苦戦を強いられた。大本営では乃木軍参謀長には砲術専門の伊地知幸介より、工兵の第一人者である上原の方が適任だったとして、野津軍の姻戚人事と乃木軍の藩閥人事を恨んだ(もっともこの当時、要塞攻撃に対する坑道掘進術は未熟だったと上原自身が述懐している)。

野津は満洲でよく狩りをして、鹿の生き血を「胆力がつくから」と飲み、部下にも勧めて閉口された。そのような時「自分が若い頃は処刑者が出ると聞いたら飛んでいって、死体から生肝を取り出して食べたものだ」と嘘とも本当ともつかぬことを言って笑い飛ばしたという。

日清戦争までの野津は奇襲を得意としていたが、肉弾戦だけに味方の被害も少なくなかった。日露戦争になるとその時の教訓を活かして、無理攻めは極力せず相手の隙をついての一気強襲という作戦で一貫した。結果、日露戦争終期の奉天会戦においてもっとも戦力を保持していたのは野津第4軍であり、満身創痍の黒木第1軍に代わって会戦の主力となった。

兵力の消耗を極力抑え、奉天会戦までを寡少な兵力でひたすら忍んで戦った野津であったが、ロシア軍が敗走し追撃戦となった際、予備兵を野津軍に編入するまで待機せよと命ずる総司令部に対し、ついに「予備の兵など一兵も要らぬ!俺が行く!」と大喝し、猛将健在を知らしめた。

野津は日露双方から退却将軍とまで罵られた敵将アレクセイ・クロパトキンの撤退の鮮やかさに一目置いており、「これは撤退戦術であるから」と決して深追いはしなかった。また、戦後クロパトキンが軍法会議にかけられるという報せを聞いたときには「そもそも閣下は開戦に反対だったと聞く。それでも満州で指揮を取って立派に戦ったのに、負けたからと処罰されるのはあまりに気の毒だ」と憤慨したという。

乃木希典学習院学長時代、「良家の淑女写真コンテスト」という日本初のミスコンが行われ、学習院3年生(当時16歳)の末弘ヒロ子が優勝した。これに乃木は「自分の美しさを誇示するとは如何」と問題視しヒロ子を退学処分とした。ヒロ子は弁解をしなかったが、後にこの件はヒロ子の義兄が勝手に写真を応募したものであったという次第を知り、乃木は激しく後悔し中退者となったヒロ子の将来を案じて良縁を求めて奔走した。それを知った野津が「うちの長男(鎮之助・後の貴族院議員)でどうか」と申し出、望外の縁談で乃木の面目を保った。一方で鎮之助とヒロ子は以前から婚約しており、この逸話は乃木の名誉挽回のための創作という説もある。

栄典
位階


1874年(明治7年)2月18日 - 従五位[12]

1885年(明治18年)7月25日 - 従四位[13]

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