野沢雅子
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

叔母の佐々木清野が松竹の女優だった縁で、3歳の時に子役として映画デビュー[10][22][23][24]。元々はやりたくてやっていたわけではなく、野沢が物心付く頃には佐々木は引退しており、映画界で野沢に自分の跡を継がせたかったらしいという[25]。最初に出演していた映画は題名も覚えておらず、母子の愛情を描いた「母もの」が多かったという[10][22][26]。当時は児童劇団には所属していなかったという[26]。小さい時から、踊りなどのわりと芸事が好きだった[26]。父が後述の通り、画家だったことから、三味線など、そういうもの習わせたという[26]。演じる面白さに気が付いたのは小学1年生の学芸会で、拍手をもらうことが嬉しかったという[27]。仕事をしているという意識はなかったが、父母が歌舞伎、新派の芝居が好きで連れていかれたためか、子供の頃から、「将来は女優になるんだ」と心に決めていた[10]。映画、ラジオドラマに出演したりと、芸能活動は続けていた[24]。しかし、女優の仕事は父の意向で学校が休みの時限定だった[5][24]。アレルギー体質もあり、体が弱く、父が尾瀬を描いた作品で日展に入選、その縁で、1944年戦時中空襲を避けるため、群馬県利根郡(現・沼田市)に移り住み小学3年生から高校卒業までを過ごす[9][10][22][28]。ある日、家に姿見があり、その鏡で野沢の姿を見ており、その時に初めて、「役者になりたい」と思ったのは小学3年生の時だったという[22][24][26][29]。しかし小学校高学年になった時に、医者になりたくなったという[29]。高校時代の頃、父に医者になりたいことを話したという[29]。当時は外科医になりたかったという[29]。中学の時に劇団に入り、学校が休みになると東京で女優の仕事を行うという日々を送る[10]

高校は群馬県立沼田女子高等学校に在学[2][30]。高校生時代は、バスケットボール陸上競技ソフトボールなどのスポーツに励む生徒だったという[30]。高校1年生の時に映画界入りさせたかった叔母が諦めて、NHKのプロデューサーを紹介したことで劇団東芸に入団し[28]、研究生となる[4]。前々からNHKのドラマ「おいらの町」に出演したりとテレビの仕事をしており、そのプロデューサーの紹介で特別に劇団に入れてもらった(本来は入団試験があるが、プロデューサーが「夏休みや日曜日しか参加できないけど、芝居が好きでやりたいらしい。とにかく卒業したら本格的にやりたいというので、なんとか入れてくれないか」と話してくれて、劇団の社長も入団をOKしてくれたという)[22]。父は「もう学業はちゃんとしなくちゃいけない、休んではいけない」ということで、内緒で入団したという[26]。初舞台は菊田一夫作『堕胎医』[28][31]

高校在学中は、父のいいつけを守り、学業優先で学業に励むかたわら、時間を作っては劇団の稽古場へも通っていたという[2][4]。公演の際にも、「舞台に立ちたい」という逸る心を抑えて、小道具作り、効果音作りなどの裏方の手伝いとして参加していた[4]

高校3年生になり、大学進学か、女優の道か進路の選択を追られていた[5]。父が、花嫁修業を兼ねて大学の家政科に進んでほしいと思っているのは、うすうす気づいていたが、野沢は女優の道、舞台の世界へ足を踏みだす決心をしていた[5]。女優の世界へ導いていた叔母も、「舞台女優は収入が得られないから」と、猛反対していた[5]。しかし野沢は知人に紹介してもらった劇団にこっそりと何度か顔を出しており、舞台の魅力に取りつかれ、意志は揺らがなかったという[5]

夏休み、休日を中心の活動だったが、高校卒業と同時に、父の許しを得て、上京し本格的に芝居に打ち込むようになる[2][4][10][26]早稲田大学の演劇科へ行こうという気持ちもあったが、父から「早稲田に行くんだったら劇団に入るのはやめなさい。学校生活では学校のことをやりなさい」と言われ、大学に行く4年間を劇団活動に費やした方がいいと決めた。劇団に入ってから「10年たっても生活できなかったら、そこでまた考えて、すぱっと辞めるか、そのまま続けるか決める」と父と約束し(もっとも、当時から仕事をしており、かなり収入があった)、「10年も役者をやり抜くとはたいしたもんだ。10年間劇団の生活は見よう。自分に何かあったら母に言えば大丈夫なようにしておこう」と言ってもらえた[32]。若い頃から交流のあった白石冬美の談話によると、元々は演出家志望だった。
声優として

また、劇団の経営を支えるため、10代の終わり頃には声優業も始める[10]。その時の洋画は少年が多く、プロデューサーが「女性の声帯が少年に近いのでは」と言っており、そのオーディションに合格し、職業としての声優に足を踏み入れたという[27]。当時は声の吹き替えは録音ではなく生放送だったため、初仕事が洋画の吹き替えであるのは覚えているが[33]、正確な声優業デビュー作品は本人も覚えておらず不明である。

アニメデビュー作は、『鉄腕アトム (アニメ第1作)』のゲスト出演[34]。レギュラーではないが、毎回、少年役などを担当していたという[35]。レギュラーでは『宇宙パトロールホッパ』のプー役[35]。初主演作は『ゲゲゲの鬼太郎(第1作)』(鬼太郎役)となる[34]

アニメのレギュラーが増え舞台への出演が減った頃富田耕生に呼ばれ、後の青二プロダクションの社長である久保進から「独立して事務所を作りたい。マコにも来てほしい」と誘われる。当初は「劇団で過保護に育ってるしプロダクションの生活はしたことないため不安、それに舞台もやめられない」と答えたが「面倒は自分たちで見るし、舞台も続けてくれて構わない」と言われ劇団と相談し東芸と新事務所の青二の両方に所属し始めた。しかし、声の仕事が忙しくなったため舞台ができなくなり、結果的に劇団を辞めた[36]

1979年、青二プロダクションの分裂騒動の際には、創設メンバーの一人でありながらぷろだくしょんバオバブ[2]の設立に関わった[注 1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:388 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef