野沢雅子
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演じる面白さに気が付いたのは小学1年生の学芸会で、拍手をもらうことが嬉しかったという[27]。仕事をしているという意識はなかったが、父母が歌舞伎、新派の芝居が好きで連れていかれたためか、子供の頃から、「将来は女優になるんだ」と心に決めていた[10]。映画、ラジオドラマに出演したりと、芸能活動は続けていた[24]。しかし、女優の仕事は父の意向で学校が休みの時限定だった[5][24]。アレルギー体質もあり、体が弱く、父が尾瀬を描いた作品で日展に入選、その縁で、1944年戦時中空襲を避けるため、群馬県利根郡(現・沼田市)に移り住み小学3年生から高校卒業までを過ごす[9][10][22][28]。ある日、家に姿見があり、その鏡で野沢の姿を見ており、その時に初めて、「役者になりたい」と思ったのは小学3年生の時だったという[22][24][26][29]。しかし小学校高学年になった時に、医者になりたくなったという[29]。高校時代の頃、父に医者になりたいことを話したという[29]。当時は外科医になりたかったという[29]。中学の時に劇団に入り、学校が休みになると東京で女優の仕事を行うという日々を送る[10]

高校は群馬県立沼田女子高等学校に在学[2][30]。高校生時代は、バスケットボール陸上競技ソフトボールなどのスポーツに励む生徒だったという[30]。高校1年生の時に映画界入りさせたかった叔母が諦めて、NHKのプロデューサーを紹介したことで劇団東芸に入団し[28]、研究生となる[4]。前々からNHKのドラマ「おいらの町」に出演したりとテレビの仕事をしており、そのプロデューサーの紹介で特別に劇団に入れてもらった(本来は入団試験があるが、プロデューサーが「夏休みや日曜日しか参加できないけど、芝居が好きでやりたいらしい。とにかく卒業したら本格的にやりたいというので、なんとか入れてくれないか」と話してくれて、劇団の社長も入団をOKしてくれたという)[22]。父は「もう学業はちゃんとしなくちゃいけない、休んではいけない」ということで、内緒で入団したという[26]。初舞台は菊田一夫作『堕胎医』[28][31]

高校在学中は、父のいいつけを守り、学業優先で学業に励むかたわら、時間を作っては劇団の稽古場へも通っていたという[2][4]。公演の際にも、「舞台に立ちたい」という逸る心を抑えて、小道具作り、効果音作りなどの裏方の手伝いとして参加していた[4]

高校3年生になり、大学進学か、女優の道か進路の選択を追られていた[5]。父が、花嫁修業を兼ねて大学の家政科に進んでほしいと思っているのは、うすうす気づいていたが、野沢は女優の道、舞台の世界へ足を踏みだす決心をしていた[5]。女優の世界へ導いていた叔母も、「舞台女優は収入が得られないから」と、猛反対していた[5]。しかし野沢は知人に紹介してもらった劇団にこっそりと何度か顔を出しており、舞台の魅力に取りつかれ、意志は揺らがなかったという[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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