野沢雅子
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事務所青二プロダクション[14]
配偶者塚田正昭(2014年死別)[2][4][5]
公式サイト野沢 雅子|株式会社青二プロダクション
公称サイズ(時期不明)[16]
身長 / 体重153[11] cm / 48 kg
靴のサイズ23.0[15] cm

声優活動
活動期間1950年代 -
ジャンルアニメゲーム吹き替えナレーション
女優活動
活動期間1939年 -
ジャンルテレビドラマ映画舞台
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

野沢 雅子(のざわ まさこ、1936年昭和11年〉10月25日[4][17][18][19] - )は、日本声優女優歌手東京都荒川区日暮里出身[8]青二プロダクション所属[14]劇団ムーンライト主宰[13]日本俳優連合副理事長[20]

声優としての代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』(鬼太郎)、『いなかっぺ大将』(風 大左衛門)、『ど根性ガエル』(ひろし)、『銀河鉄道999』(星野鉄郎)、『ドラゴンボール』シリーズ(孫悟空孫悟飯孫悟天)など[21]
来歴
キャリア

東京府東京市荒川区日暮里で生まれる[22]。叔母の佐々木清野が松竹の女優だった縁で、3歳の時に子役として映画デビュー[10][22][23][24]。元々はやりたくてやっていたわけではなく、野沢が物心付く頃には佐々木は引退しており、映画界で野沢に自分の跡を継がせたかったらしいという[25]。最初に出演していた映画は題名も覚えておらず、母子の愛情を描いた「母もの」が多かったという[10][22][26]。当時は児童劇団には所属していなかったという[26]。小さい時から、踊りなどのわりと芸事が好きだった[26]。父が後述の通り、画家だったことから、三味線など、そういうもの習わせたという[26]。演じる面白さに気が付いたのは小学1年生の学芸会で、拍手をもらうことが嬉しかったという[27]。仕事をしているという意識はなかったが、父母が歌舞伎、新派の芝居が好きで連れていかれたためか、子供の頃から、「将来は女優になるんだ」と心に決めていた[10]。映画、ラジオドラマに出演したりと、芸能活動は続けていた[24]。しかし、女優の仕事は父の意向で学校が休みの時限定だった[5][24]。アレルギー体質もあり、体が弱く、父が尾瀬を描いた作品で日展に入選、その縁で、1944年戦時中空襲を避けるため、群馬県利根郡(現・沼田市)に移り住み小学3年生から高校卒業までを過ごす[9][10][22][28]。ある日、家に姿見があり、その鏡で野沢の姿を見ており、その時に初めて、「役者になりたい」と思ったのは小学3年生の時だったという[22][24][26][29]。しかし小学校高学年になった時に、医者になりたくなったという[29]。高校時代の頃、父に医者になりたいことを話したという[29]。当時は外科医になりたかったという[29]。中学の時に劇団に入り、学校が休みになると東京で女優の仕事を行うという日々を送る[10]

高校は群馬県立沼田女子高等学校に在学[2][30]。高校生時代は、バスケットボール陸上競技ソフトボールなどのスポーツに励む生徒だったという[30]。高校1年生の時に映画界入りさせたかった叔母が諦めて、NHKのプロデューサーを紹介したことで劇団東芸に入団し[28]、研究生となる[4]。前々からNHKのドラマ「おいらの町」に出演したりとテレビの仕事をしており、そのプロデューサーの紹介で特別に劇団に入れてもらった(本来は入団試験があるが、プロデューサーが「夏休みや日曜日しか参加できないけど、芝居が好きでやりたいらしい。とにかく卒業したら本格的にやりたいというので、なんとか入れてくれないか」と話してくれて、劇団の社長も入団をOKしてくれたという)[22]。父は「もう学業はちゃんとしなくちゃいけない、休んではいけない」ということで、内緒で入団したという[26]。初舞台は菊田一夫作『堕胎医』[28][31]

高校在学中は、父のいいつけを守り、学業優先で学業に励むかたわら、時間を作っては劇団の稽古場へも通っていたという[2][4]。公演の際にも、「舞台に立ちたい」という逸る心を抑えて、小道具作り、効果音作りなどの裏方の手伝いとして参加していた[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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