野沢雅子
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高校は群馬県立沼田女子高等学校に在学[2][30]。高校生時代は、バスケットボール陸上競技ソフトボールなどのスポーツに励む生徒だったという[30]。高校1年生の時に映画界入りさせたかった叔母が諦めて、NHKのプロデューサーを紹介したことで劇団東芸に入団し[28]、研究生となる[4]。前々からNHKのドラマ「おいらの町」に出演したりとテレビの仕事をしており、そのプロデューサーの紹介で特別に劇団に入れてもらった(本来は入団試験があるが、プロデューサーが「夏休みや日曜日しか参加できないけど、芝居が好きでやりたいらしい。とにかく卒業したら本格的にやりたいというので、なんとか入れてくれないか」と話してくれて、劇団の社長も入団をOKしてくれたという)[22]。父は「もう学業はちゃんとしなくちゃいけない、休んではいけない」ということで、内緒で入団したという[26]。初舞台は菊田一夫作『堕胎医』[28][31]

高校在学中は、父のいいつけを守り、学業優先で学業に励むかたわら、時間を作っては劇団の稽古場へも通っていたという[2][4]。公演の際にも、「舞台に立ちたい」という逸る心を抑えて、小道具作り、効果音作りなどの裏方の手伝いとして参加していた[4]

高校3年生になり、大学進学か、女優の道か進路の選択を追られていた[5]。父が、花嫁修業を兼ねて大学の家政科に進んでほしいと思っているのは、うすうす気づいていたが、野沢は女優の道、舞台の世界へ足を踏みだす決心をしていた[5]。女優の世界へ導いていた叔母も、「舞台女優は収入が得られないから」と、猛反対していた[5]。しかし野沢は知人に紹介してもらった劇団にこっそりと何度か顔を出しており、舞台の魅力に取りつかれ、意志は揺らがなかったという[5]

夏休み、休日を中心の活動だったが、高校卒業と同時に、父の許しを得て、上京し本格的に芝居に打ち込むようになる[2][4][10][26]早稲田大学の演劇科へ行こうという気持ちもあったが、父から「早稲田に行くんだったら劇団に入るのはやめなさい。学校生活では学校のことをやりなさい」と言われ、大学に行く4年間を劇団活動に費やした方がいいと決めた。劇団に入ってから「10年たっても生活できなかったら、そこでまた考えて、すぱっと辞めるか、そのまま続けるか決める」と父と約束し(もっとも、当時から仕事をしており、かなり収入があった)、「10年も役者をやり抜くとはたいしたもんだ。10年間劇団の生活は見よう。自分に何かあったら母に言えば大丈夫なようにしておこう」と言ってもらえた[32]。若い頃から交流のあった白石冬美の談話によると、元々は演出家志望だった。
声優として

また、劇団の経営を支えるため、10代の終わり頃には声優業も始める[10]。その時の洋画は少年が多く、プロデューサーが「女性の声帯が少年に近いのでは」と言っており、そのオーディションに合格し、職業としての声優に足を踏み入れたという[27]。当時は声の吹き替えは録音ではなく生放送だったため、初仕事が洋画の吹き替えであるのは覚えているが[33]、正確な声優業デビュー作品は本人も覚えておらず不明である。

アニメデビュー作は、『鉄腕アトム (アニメ第1作)』のゲスト出演[34]。レギュラーではないが、毎回、少年役などを担当していたという[35]。レギュラーでは『宇宙パトロールホッパ』のプー役[35]。初主演作は『ゲゲゲの鬼太郎(第1作)』(鬼太郎役)となる[34]

アニメのレギュラーが増え舞台への出演が減った頃富田耕生に呼ばれ、後の青二プロダクションの社長である久保進から「独立して事務所を作りたい。マコにも来てほしい」と誘われる。当初は「劇団で過保護に育ってるしプロダクションの生活はしたことないため不安、それに舞台もやめられない」と答えたが「面倒は自分たちで見るし、舞台も続けてくれて構わない」と言われ劇団と相談し東芸と新事務所の青二の両方に所属し始めた。しかし、声の仕事が忙しくなったため舞台ができなくなり、結果的に劇団を辞めた[36]

1979年、青二プロダクションの分裂騒動の際には、創設メンバーの一人でありながらぷろだくしょんバオバブ[2]の設立に関わった[注 1]。青二プロダクションからバオバブへ移ったのは、当時野沢は青二の株主で株主総会が夜遅くかかり、娘や母のためになるべく早く帰りたかったためである。青二の株は社長の久保が引き取ってくれたが、「マコにやめられるっていうのは、夫婦で夜、一つの布団にいっしょに寝て、朝目が覚めたら女房にいなくなられたような感じなんだよ」と言われ、申し訳ないことをしたなと思ったという[37]

1981年、バオバブが軌道に乗った頃、イベント企画部門として作られた81プロデュースが独立、当時マネージャーだった南沢道義が責任者となりバオバブを辞める。一方野沢はバオバブでは養成所を作る手伝いをしていたが、ゴタゴタがあり仕事を降りる。しかし、仕事を降りたことが「喧嘩している」と噂になってしまい、青二の久保から「俺が南沢に話をしとくから、南沢のところへ行きなさい」と言われ、1年半後に81プロデュースに移籍[38][39]。長きに亘って在籍したが、2006年4月1日に「オフィス野沢」を設立し独立した[40]。この際、声優活動をしていた当時は野沢との共演も多かった吉田理保子マネージャーを担当していた[41]

2004年にはアニメがビデオ・DVD化された際に音声制作会社に声の使用料の支払いを求め、野沢は声優361人を代表して原告団長として訴訟を起こし勝訴している[42]
現在まで

2012年4月1日より青二プロダクションに復帰[43]、同年4月30日にオフィス野沢を廃業した[44]

2013年、第7回声優アワード「功労賞」を受賞[45]

2014年東久邇宮文化褒賞を受賞。

2017年1月31日、バンダイナムコエンターテインメントの『ドラゴンボール』関連のゲームで主人公・孫悟空の声優として「ひとつのビデオゲームのキャラクターを最も長い期間演じた声優」「ビデオゲームの声優として活動した最も長い期間」の2項目でギネス世界記録に認定されたことが明らかになった[46]。また、同年5月16日には、前年に短編アニメ映画『風のように』で主人公・三平役を演じたことから、第26回日本映画批評家大賞のアニメーション部門声優賞を受賞[47]

2018年、長年の声優活動を通じて児童文化の向上や普及に努め健全育成に貢献してきた実績が認められ、「平成30年度 児童福祉文化賞 特別部門」を受賞[48]

2023年、第71回菊池寛賞を受賞[49]
人物

声優業の創生期から活躍しており、青二プロダクション創設メンバーのひとりでもある。現在は劇団ムーンライトの主宰・演出も手がけている。

父は画家の野沢蓼洲(のざわ りょうしゅう)[8][50]。母は野沢鶴[50]


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