野沢雅子
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しかし、声の仕事が忙しくなったため舞台ができなくなり、結果的に劇団を辞めた[36]

1979年、青二プロダクションの分裂騒動の際には、創設メンバーの一人でありながらぷろだくしょんバオバブ[2]の設立に関わった[注 1]。青二プロダクションからバオバブへ移ったのは、当時野沢は青二の株主で株主総会が夜遅くかかり、娘や母のためになるべく早く帰りたかったためである。青二の株は社長の久保が引き取ってくれたが、「マコにやめられるっていうのは、夫婦で夜、一つの布団にいっしょに寝て、朝目が覚めたら女房にいなくなられたような感じなんだよ」と言われ、申し訳ないことをしたなと思ったという[37]

1981年、バオバブが軌道に乗った頃、イベント企画部門として作られた81プロデュースが独立、当時マネージャーだった南沢道義が責任者となりバオバブを辞める。一方野沢はバオバブでは養成所を作る手伝いをしていたが、ゴタゴタがあり仕事を降りる。しかし、仕事を降りたことが「喧嘩している」と噂になってしまい、青二の久保から「俺が南沢に話をしとくから、南沢のところへ行きなさい」と言われ、1年半後に81プロデュースに移籍[38][39]。長きに亘って在籍したが、2006年4月1日に「オフィス野沢」を設立し独立した[40]。この際、声優活動をしていた当時は野沢との共演も多かった吉田理保子マネージャーを担当していた[41]

2004年にはアニメがビデオ・DVD化された際に音声制作会社に声の使用料の支払いを求め、野沢は声優361人を代表して原告団長として訴訟を起こし勝訴している[42]
現在まで

2012年4月1日より青二プロダクションに復帰[43]、同年4月30日にオフィス野沢を廃業した[44]

2013年、第7回声優アワード「功労賞」を受賞[45]

2014年東久邇宮文化褒賞を受賞。

2017年1月31日、バンダイナムコエンターテインメントの『ドラゴンボール』関連のゲームで主人公・孫悟空の声優として「ひとつのビデオゲームのキャラクターを最も長い期間演じた声優」「ビデオゲームの声優として活動した最も長い期間」の2項目でギネス世界記録に認定されたことが明らかになった[46]。また、同年5月16日には、前年に短編アニメ映画『風のように』で主人公・三平役を演じたことから、第26回日本映画批評家大賞のアニメーション部門声優賞を受賞[47]

2018年、長年の声優活動を通じて児童文化の向上や普及に努め健全育成に貢献してきた実績が認められ、「平成30年度 児童福祉文化賞 特別部門」を受賞[48]

2023年、第71回菊池寛賞を受賞[49]
人物

声優業の創生期から活躍しており、青二プロダクション創設メンバーのひとりでもある。現在は劇団ムーンライトの主宰・演出も手がけている。

父は画家の野沢蓼洲(のざわ りょうしゅう)[8][50]。母は野沢鶴[50]。両親とも江戸っ子だった[50]。叔母は松竹の女優である佐々木清野[8]。両親からは「まあちゃん」と呼ばれていた[50]

母親とは戸籍上では血が繋がっておらず、母が最初に結婚した際に流産してしまい、父と再婚しても子供ができなかっため、「野沢の血を絶えてしまってはいけない」ということで、他の女性と子供を作ったという。野沢は高校生くらいの思春期の頃、戸籍謄本を見て「養女」となっておりショックを受けたが、父からは「母は近所で有名なおしゃれできれいな人で家事をしなかったが、あなたを連れてきてからなりふりかまわずみんなが驚いたくらい夢中になって育てたんだよ」と言われ、母からも「あなたを産む時にお腹を痛めなかったけど、私が産んだ娘だとずっと思っている」と言われて野沢は「この人以外に私の母はいない」と強く思った。母や父は産みの親を大切にしており、家にもよく泊まりに来ていたという[32]

25歳の時に娘を出産[3][5][17]。『週刊TVガイド1969年4月4日号でのインタビューで、当時幼稚園児だった娘に対しての子育てについて「ものの良し悪しは自分で覚えるものと思うので、自分は干渉せず、何事も自分でやらせようという方針」と語り、“アンチ教育ママ”を自称していた[30]

独身時に劇団仲間と車で移動中にバイク事故を目撃する。全員が「あのバイクに乗っていた人は死んだ」と思う程の激しい事故だったが、その当該者が後に夫になる塚田正昭だった[51]

一人っ子である[10][50]

子供の頃は原っぱで男の子の中に一人混じってチャンバラをしているような下町っ子であり、いじめっ子の男の子をこらしめたりなど男勝りな性格だったという[3][10][22]田の中勇からは「男の僕からしても男らしかった」「感覚が下町っていうか、本当に男の子だった」と言われていた(野沢は田の中を「タノ子」と呼んでおり、田の中も野沢を「雅男」と呼んでいたという)[52]

影響を受けた役者はいないが、ただ好きで尊敬する女優である杉村春子山岡久乃奈良岡朋子たちの芝居はよく見に行っていたという[53]

趣味は計画無しのドライブ旅行、スポーツ観戦[13][14]

好きな言葉は「自由、夢、ハプニング」[2][35]
姿勢

新人時代、当時のアフレコ環境はまだ録音機材が充実しておらず、収録中のNGは全て最初からの録り直しとなった。そのため、NGを出すと「(申し訳なさで)気を失いそうになった」と回想しており、簡単にNGを出す最近の若手声優に対し「緊張感が足りない」「『NG大賞』なんて、当時の感覚からしたら信じられない」との考えを持っている。

「声優以前に俳優である」という考えから、デビュー間もない頃は“声優”と呼ばれることには抵抗があり、インタビューのたびに「舞台女優です」と訂正を求めていた[54][55]。現在は「“声優”と呼ばれることには抵抗がなく、むしろ誇りに思っている」と語っている[54][55]。元々声優志望ではなくテレビアニメは仕事のひとつという意識だったが、アニメの仕事が増えていき、『宇宙パトロールホッパ』などレギュラーの仕事を持つようになってからは楽しいという気持ちが大きくなっていった。洋画の吹き替えは生身の人間の芝居から極端に外れることはできないがアニメは無から有を作れるため自由自在にすごく楽しく演じられるといい、この頃から「私は声優です」と言えるようになってきたのだという[56]。また、「キャラクターのイメージを壊す」という理由で、テレビの顔出し出演を拒む声優が多い中、アニメ関連に限らず、バラエティ番組などにも本人登場で出演することがある。

「役に入り込むこと」と「役を演じ分けること」に必要なのは自分の引き出しを増やすことだといい、日常生活のウォッチングとリスニングが大事だという[57]。声優を目指す者に対しては読書を通じて想像力を養ってほしいと語っており、上品な言い回しが苦手な若手声優も目立つため日頃から読書や人間観察を続けることで解決できるとアドバイスを送っている。また「他人の評価を気にせず、見栄を張らないこと」、「こうしたら上手に聴こえるかな?などと考えてはダメ。大切なのはハートです。上手な言葉ではなく生きた言葉を発してほしい。技術なんてものは、後からいくらでも成長します。だからこそ、ハートのこもったセリフを心掛けてください」とも語っている[58]

タイガーマスク』に出演していた頃、貰い火で自宅が半焼した際には「仕事に穴を開けるわけにはいかない」と、近所から服を借りてスタジオに行き、火事のことはスタッフ・共演者の誰にも告げずにアフレコに臨んだことがある[23][59][60]


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