野沢那智
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1963年劇団薔薇座を設立[13]。俳協所属から約1年半経過し借金が半分になったこともあり、演出家としての活動に専念しようと役者業の引退を考えた[13][21]。その趣を俳協へ伝えると「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているので、落ちるから大丈夫」と言われて紹介されたのが『0011ナポレオン・ソロ』であった[21]。気楽にオーディションを受けた野沢だったが、なぜか愛川欽也が内定していたイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役に決まってしまったといいい、そして『0011ナポレオン・ソロ』が視聴率40%ほどを取る大ヒット作となったため、役者をやめるわけにはいかなくなったとのこと[13][21]。また、このような経緯で野沢自身も人気を獲得し、本人いわく「それから声の仕事を本気でやる気になりました」とのこと[21]。アニメのデビュー作は1963年の『狼少年ケン[3]

TBSラジオの深夜ラジオ番組『パックインミュージック』ではパーソナリティとして白石冬美とコンビを組み、大きな好評を得て延長を重ねた末、結果的に15年間続いた(その詳細は#パックインミュージックの節も参照)。その後も文化放送など局を移しても2人で「那智チャコ」の愛称でラジオ番組のパーソナリティ・コンビを務めた。

その後、数多の洋画吹き替えアニメ作品で声の出演、またラジオDJナレーションなどを手がける。劇団薔薇座などでは舞台プロデュース・舞台演出でも活躍した。

1988年、劇団薔薇座の第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞。
晩年・死後

2003年オフィスPACを設立。付属養成所のパフォーミング・アート・センターにおいて声優や舞台俳優を目指す人材を育成[8]。設立当初は代表取締役として在籍し、声優としては賢プロダクションに所属を続けていたが[11]2008年5月頃に賢プロダクションを退所し、事実上オフィスPACへ移籍した。一時は青二プロダクションにも所属していた[25]

2008年第2回声優アワード功労賞を受賞。

2009年後半、この頃から次第に体調を崩し始め[16]、一時仕事を完全にストップして治療に専念すると宣言するなど、仕事のセーブに拍車がかかる。

2010年、7月頃までは指導にあたっていたが、夏に精密検査を受けた結果肺がんを患っていたことが判明し、8月から入院[16]抗がん剤などで治療生活を送るも、容態は一向に回復せず、10月26日に都内の別の病院へ転院[16]。この頃には、もう会話することすらできなくなっていたという。妻や長男、親族、自身が代表を務める養成所の生徒たちに囲まれながら、10月30日午後3時36分、肺がんのため、死去した[16][26]。72歳没。墓所は雑司ヶ谷霊園

2011年2月14日にお別れの会が行われ、山寺宏一羽佐間道夫をはじめとした580人が参列した[27]。祭壇には野沢が愛用していた物や舞台演出した台本、息子の贈り物などが飾られた[27][28]。弔辞を読んだのは野沢とラジオで長年コンビを組んだ白石冬美で「どこも痛くなくなった今、空の上から見守ってください」と別れを惜しんだ[27]

2011年3月5日に行われた、第五回声優アワードで特別功労賞が贈られた[29]。声優アワードの生前、没後双方での受賞は初となる。
人物・特色

芸名の由来は、公私ともに本来の読みである「やすとも」と呼ばれたことがなく、結果的に音読みの「なち」がそのまま定着したことによる。

声種バリトン。収録の際は、台本を持ちながら体をくねらせて発声する独特のスタイルを持っていた。その光景を間近で観察していた後輩の若本規夫は後に「細身でありながら深みのある声を出すために、横隔膜や骨盤底筋を使っていたのではないか」と推察している[30]

役柄としては主に青年役を担当しているが、時に中年・老人役も演じる。声質からアニメやゲーム作品においては、『キングダムハーツ Re:チェインオブメモリーズ』(ヴィクセン)や『ルパン三世 ルパン暗殺指令』(ジョン・クローズ)のような悪役を演じるイメージが強いが、『チキチキマシン猛レース』(ナレーター〈実況〉)のような熱血漢、洋画吹き替えではアラン・ドロンジュリアーノ・ジェンマロバート・レッドフォードジェームズ・ディーンなどの二枚目役、また雰囲気を変えた三枚目もこなす。本人によれば「狂人が得意分野」とのことで、「キレるのは易しい」と語ったこともある[31]。『悟空の大冒険』で担当した三蔵法師がいわゆる「おかま」になったのはアドリブからである。

アル・パチーノクリストファー・ウォーケンダスティン・ホフマンデニス・ホッパー(『スピード』)といった狂気がかった役の吹き替えが多いが、本人はジェラール・フィリップトム・ハンクス全出演作を吹替えるという夢を持っていた。前者はナレーションを担当した『星の王子さま(CD-ROM版)』で一部実現したが後者は一本も担当したことがなかった。笑いの要素が好きで演技にも感動させられると語っていた。

特技は歌舞伎の声色[11]
主な吹き替え担当俳優
アラン・ドロン

1969年頃、アラン・ドロンの吹き替えを初めて担当。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。野沢に先んじてドロンを多く吹き替えた堀も野沢が担当した作品を観た際には「僕は彼の演技にのれないことが多々あったが、野沢さんの場合はぴったり合っている」と評している[32]

ドロンを担当するようになった経緯ついて、野沢本人は後に「『太陽がいっぱい』で堀勝之祐がドロン、自身がモーリス・ロネを吹き替え放送したところ、しばらくして春日正伸の提案で配役を逆にして録り直し放送した。これで初めてドロンを吹き替え、その後多く吹き替えるようになった」と述べている[33]


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