野村吉三郎
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帝国海軍の海軍大将のうち、昭和に入ってから海軍大将に親任された者32名のうち、海大甲種学生の履歴を持たないのは野村を含め3名のみである[2]。これについて、野村が「海大へ行ったって、誰が俺に教えるというんかい[2]」と豪語して、海大甲種学生の入校試験を受けなかったためである[4]、という有名な挿話がある[2][4][5]。しかし実際には、野村は1907年(明治40年)に海大甲種学生を受験し、優秀な成績で合格していた[2]。海外に海軍士官を派遣する予算にたまたま余裕があったため[2]、野村がオーストリアに派遣されることとなり[2][5]、野村の海大入校が沙汰止みとなったものである[2]
学習院長として

1937年(昭和12年)、学習院長の荒木寅三郎が辞意を表明。3年後に皇太子の入学も控えており、後任の人選は難航したが、上海事変などで武勲を重ねた野村に白羽の矢が立った。同年4月6日に 予備役入りを待って第16代の学習院長の発令[6]。海軍大将経験者の学習院長は初。院長は1939年(昭和14年)10月7日まで務めた。後任は同じ海軍大将経験者の山梨勝之進
外交官として信任状奉呈のためホワイトハウスを訪れる野村駐米大使(1941年2月14日)

1939年(昭和14年)8月末、予備役陸軍大将の阿部信行組閣の大命を受けると、阿部は当初外務大臣を兼任したが、政権発足直後に欧州第二次世界大戦が勃発すると、国際法に詳しい専任の外相がどうしても必要になった。そこで阿部が抜擢したのが野村だった。海軍時代から国際法の研究に携わっていた野村は、退官する頃までにはその権威として知られていたのである。しかし9月25日に野村は外相に就任するが、3か月半と経たないうちに阿部は内閣を放り出してしまう。その後日米関係が悪化の一途をたどる中、1941年(昭和16年)1月に野村は駐米大使に起用される。フランクリン・ルーズベルト大統領とは旧知の間柄ということが期待されての人事だった。

在アメリカ大使館駐在武官の経験はあるものの、英語はあまり流暢ではなく、アメリカ政府要人との外交交渉の場で野村の英語力がネックになることさえあったとされる[7]。日本の南部仏印進駐によってアメリカとの関係がさらに悪化すると、外務省は駐独大使を歴任した外交官来栖三郎を異例の「二人目の大使」としてワシントンに派遣、両大使でアメリカのコーデル・ハル国務長官と戦争回避のための交渉を行わせることにした。

来栖は外務省入省直後からアメリカ勤務が長く、夫人はアメリカ人で、英語が非常に堪能なアメリカ専門家であったが、如何せん駐独大使としてナチス・ドイツおよびイタリア王国との日独伊三国同盟に署名した張本人であり、ルーズベルト大統領は同じ海軍の出身で旧知の間柄である野村を好意的な目で見る一方、来栖には不信感を隠さなかった。交渉は難航し、野村は再三にわたって辞職願いを出すが、外務大臣ばかりか海軍大臣や軍令部総長からも慰留されて結局大使の立場にとどまっている[8]真珠湾攻撃の直前にハル国務長官と最後の会談に臨む野村大使と来栖大使(1941年12月7日)

野村はかねてから「アメリカの挑発がない限り、日本は戦争を起こさない」と言明していたが、中国からの日本軍の全面撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、?介石率いる重慶国民政府以外の否認を求めるハル・ノート最後通牒と受け取った日本は、アメリカ合衆国イギリスおよびオランダ連合国を敵相手とする太平洋戦争大東亜戦争)に突入することを決定するが、日米交渉はその後も継続して行われた。

アメリカ東部時間の1941年(昭和16年)12月7日(日本時間:12月8日)、日本はマレー作戦真珠湾作戦で米英蘭と開戦した。日米交渉の裏で戦争準備を着々と進めていたことに対して、「卑怯な騙し討ちだ」と言われ、針のむしろに座るような思いでその後の半年をワシントンD.C.で過ごす。抑留者交換船ニューヨークからリオデジャネイロロレンソマルケス昭南を経て日本に戻ったのは翌年8月の中頃のことだった。帰国後は枢密顧問官に転じ、そのまま1945年(昭和20年)8月15日の敗戦(日本の降伏)を迎える。


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