野村克也
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母は戦中は看護師、戦後は丹後ちりめんの織工として働き[13]、また祖父の安治郎が米を分けてくれたため何とか生きていくことはできたが、傷んだ狭小な借家での苦しい耐乏生活を強いられた。そこで野村は家計を少しでも助けるため、網野に戻った小学3年生の頃から兄と共に新聞配達[14]アイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。

そうした生活の中で野村が興味を抱いたのは野球だった。ただし金銭的余裕が全く無かったので、古雑誌をもらって来てはプロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘らの写真を見て学び、またバットも買えないため、海水を一升瓶に詰めて持ち帰り素振りをしていたという。中学2年生で野球部に入ると、体が大きかったので捕手に回され[15]、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。家の経済事情もあり、野村は中学卒業と同時に室町呉服店に就職するつもりでいたが[注 1]、兄から高校進学を勧められる。野村は兄の通う京都府立峰山高等学校の工業化学科に合格したものの、母からは学業成績が優秀な兄を大学へやるから、中学卒業後は働くようにと言われる。しかし、兄が野村を高校へ進学させるために大学進学を断念して就職し、さらに野村が奨学金をもらえるように同校の野球部長をしていた教員の清水義一に頼み込んでくれた事もあり、野村は高校に進学することができた[17]

峰山高校の体育教師(糸井嘉男の祖父[18])は高校時代の野村を「あんな運動神経の発達した生徒はちょっとありません。排球をやらせたって、他の生徒とは群を抜いていますよ。あれなら水泳だって、柔道だってこなすでしょうし、角力取りにでもなれるかも知れません」と評している[19]。野村は1年生からレギュラー捕手となったが、峰山高校は甲子園など夢のまた夢という学校で、野村の在学中も3年生の時に京都府予選の3回戦まで進んだのが最高と[20]、とてもプロ野球のスカウトが訪れるような環境ではなかったため、清水は野村のために各球団の監督に手当たり次第に推薦状を送った。その中で南海ホークスの鶴岡一人(当時は山本姓)監督だけが返事をくれ、2年生だった1952年7月24日に西京極球場で行われた府予選1回戦(対花園高校)で、約束通り観戦に来た鶴岡の見守る中、野村は本塁打を放った[20]。試合後に鶴岡は、富永嘉郎スカウトを介して「三年辛抱する気があるなら、毎年秋に入団テストを実施するので、その時に彼を寄越して下さい」と清水に伝えた[21][22]

3年生になった野村は、たまたま巨人のテスト生を募集する新聞広告を見つける。野村は巨人の入団テストを受けるつもりでいたが、清水から監督さんが約束通り見に来て下さった南海の入団テストを受けるようにと言われて南海のテストを受験し、9月に一次テスト、11月に二次テストを受け、合格が決定した[23][注 2]。遠投のテストは自信が無かったが二軍選手でテストを手伝っていた河知治に「もっと前に行け(前で投げろ)」と言われ合格基準を超える事が出来た[25][26][27]。ところが既に就職活動鐘紡国鉄福知山鉄道管理局)から内定を得ていたこともあり、母と兄はプロ入りに反対した[28]。特に兄は筒井敬三松井淳の両ベテランに加え、小辻英雄ら有望な若手もいて捕手の層が厚い南海では厳しいのではないかと心配したが[29]、野村の決意は固く、清水も「ダメだったら私が責任を持って就職口を用意します」と取りなしたので、最終的には母も兄もプロ入りに同意した。
現役時代
レギュラー獲得まで

高校卒業後の1954年、南海にテスト生として入団した。背番号は60。同期入団には宅和本司戸川一郎皆川睦雄らがいた。

シーズン序盤に松井と並ぶ主戦捕手の筒井が故障離脱したため、野村はテスト生ながら1年目から小辻や外野手兼任の田中一朗と二番手捕手の座を争うチャンスが巡ってきた。当時の南海は、シーズン中は中百舌鳥球場横の合宿所に一軍選手と二軍選手が同居しており、また関西のパリーグ球団は二軍が別行動で遠征することはなく、一軍と帯同するか本拠地に居るかしたので、二軍に好調な選手がいると即日一軍昇格させることが可能だった[30]。まず6月17日の西鉄戦で代打として一軍戦初出場を果たしたが、この時は清水に手紙で「目がくらんでボールが見えませんでしたし、足がぶるぶる震えて立っていられないくらいでした」と書き送ったほどの極度の緊張状態で三振に終わる[31]。以後は守備からの途中出場が主となり、7月13日の近鉄戦ではスタメンでも起用された。その後、西鉄との優勝争いが終わるとまた出場機会を与えられ、10月20日第二試合の大映戦ではスタメンマスクからのフル出場を果たし、中村大成とのバッテリーで完封を収めた。一方で打撃面では9試合(代打1試合、捕手8試合)の出場で11打数無安打に終わった。

野村は入団から半年後に肩を傷めており、シーズン中は痛みをこらえながらプレーしていたが、オフには二塁への送球ができなくなるほど痛みが悪化しため[32]一塁手コンバートされた。2年目の1955年は、春先は肩痛の影響でバットを強く振り切れない状態だったが[32]、この年に発足したウエスタン・リーグで打率2位の成績を残した[33]。しかし一軍での試合出場は無く、シーズンオフに球団事務所で職員から「国へ帰って百姓か土方でもやったらどうだ」と口頭で事実上の戦力外通告を受けたが、野村は「無給でも構いませんから残してください」と必死に食い下がり、職員を根負けさせて残留を勝ち取ったという[34]。ただし、南海在籍時の1953年秋に野村の入団テストの試験官を務めた笠原和夫は、高橋ユニオンズに移籍して選手兼任監督になっていたこの1955年オフに、捕手補強のため鶴岡に野村を譲ってほしいと頼んだが「あいつは将来やれるぞ」と言われて断られたので、かわりに筒井を出してもらったと語っており[35]、鶴岡は球団によるこの戦力外通告を承知していなかった可能性がある。

その頃、翌年2月に春季キャンプを兼ねたハワイ遠征を実施するという計画が発表され、その際に二軍選手からブルペンキャッチャー要員を一名連れて行くという話が聞こえてきた。野村は秋季キャンプで必死に練習して二軍首脳陣へ猛アピールし、その甲斐あって二軍からの推薦でハワイ遠征のメンバーに抜擢された。遠征には補助要員としての参加だったが、ハワイ到着後に正捕手の松井が肩の痛みを訴えて出場を控え、上記のように筒井も高橋へ移籍していたため、捕手に戻った野村にも試合出場の機会が回ってきた。すると野村は打撃でも好成績を残し、また肩の故障の回復具合も良く、結局ハワイ遠征ではほとんどの試合で野村がマスクを被ることになった。野村は1963年にこの時の事情を「松井さんや小辻さんにしても、エキシビジョン・ゲームぐらいは、辛い捕手なんかするより、ベンチに坐っていたほうがいい。いくら打っても野村みたいな二軍捕手に負けるはずがない、と思っていたに違いない」と回想している[36]。観光気分が抜けない一軍選手たちが精彩を欠く中で、生き残りに必死な野村のプレーと練習態度は鶴岡ら首脳陣にも好印象を与えていたが、遠征最終日の夜に円子宏と共にハワイに住む戸川の親類の家に招待されて歓待を受けた際に門限を破ってしまい、野村と戸川・円子の三名は鶴岡に「貴様たちはハワイまで何をしに来たのか!」と一喝されて殴られた(他に宅和と島原輝夫も同様の理由で鶴岡に殴られている)。つかみかけた最大のチャンスを自らの不始末で台無しにしたと思った野村はすっかり落ち込んでいたが、翌日の帰路でウェーク島に寄港中に、鶴岡から「こんどのハワイ遠征は何も収穫はなかった。けどな。お前と野母(得見)だけは収穫やった」と語りかけられた[36]。鶴岡は一連の事情について「野村は入団直後に肩を痛めた。ブルペン捕手の傍ら、打撃を生かすため一塁手をやらせていた。温暖なハワイでのキャンプで肩も回復し、このキャンプの成果となった。高橋ユニオンズの誕生にともなう捕手放出、ハワイの温暖さなど、どれ一つ欠けても後の野村はなかっただろう」と述懐している[37]

こうして迎えた3年目の1956年には背番号が筒井の着けていた19に変わり、開幕戦から一貫して一軍で起用される。野村は捕球・送球の未熟さが目立ち、チーム内にも野村より守備力に優れた松井を起用して欲しいとする意見が多く、野村も「強打者として買われていたから松井さんからレギュラーを奪えたが、自分が打撃に悪影響のある怪我をすれば、すぐに松井さんに代わってしまう」と思っていた[38]。しかし鶴岡は中心打者として育て上げるために辛抱強く野村を使い続け[39]、前半戦は松井との併用だったが、後半戦は主に野村がスタメンマスクを被りそのまま正捕手に定着した。


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