満洲国(現:中華人民共和国)撫順市で誕生したが、父は生後40日目に終戦のわずか一か月前に召集されて戦死[3][4]。終戦後、母と姉ともにソ連軍に追われながら、日本に引き揚げた[3][4]。東京都杉並区の四畳半のアパートに住み、母が外で働き詰めに働き、姉と共に育つ[3][4]。そのような環境で子役として芸能界に入ったと語っている[3]。
子供ながらに変なプライドがあり、テレビ局からは車で送り迎えをしてもらっていたが、家を見られるのが嫌だったため、家まで送ってもらったことは無かった[3]。そのため、家近くのカドまでくると、「ボク、ここでいいです」と降りてしまったという[3]。子供の頃から明るく活発な性格で、その性格に芸がカバーされているという[3]。1981年時点でも「幼年期のコンプレックスの裏返しかナァ」と思うようなところもいっぱいあり、「妻はわかってるようだが……」という[3]。また小さい頃からサービス精神旺盛であり、義理のオジが「俳協で彼の紹介で子供の芝居があるから」と言い、偶々観に来ていたプロデューサーが「テレビに出ないか」と誘ったという[2]。1954年頃からテレビとラジオの両方の仕事をしていたという[2]。当時はラジオ東京(のちのTBSラジオ)のラジオ、のちにテレビで同時生放送されていた教養番組『ぴよぴよ大学』の5代目矮鶏(ちゃぼ)博士として約2年半出演していた[2][4][3][14]。
小学5年生の時に劇団東芸[15]の青年部のようなところに入団し、高校2年生までテレビドラマの子役として活躍していた[2][4][14]。当時は森山周一郎、大塚周夫、富田耕生らが20歳そこそこの若手俳優としてその劇団に所属していた頃だった[4][14]。子役時代に同じ劇団に所属していた野沢雅子に手を引っ張ってもらいNHKに通っていた[14]。劇団で色々な仕事をしていく中でラジオドラマに出演[14]。声優としても子役時代から活動しており[16][13]、洋画のアテレコにも数多く出演[4]。初仕事は外国映画『地方検事』であったが、セリフはたったひと言であり、父親が殺されてショックで口を開けなくなった子ども役であった[3]。
東京都立井草高等学校卒業[17][18]。学校卒業後、その頃は『ローハイド』のアテレコをしていたが、「どうしようかな」と考え、「じゃ、芝居をやろう」ということで、それだけでは食べていけないことからアルバイトをして生活していた[2]。その後、東京俳優生活協同組合[15]に所属[2]し、1989年にシグマ・セブンへと移籍[19]。
本格的にレギュラーをもらってから印象に残っているのは、『ナンシーはお年頃
(英語版)』であり、そのレギュラーで初めて本格的にアテレコをやり始めた[13]。当時は声だけでなく、スタジオドラマ、TV映画といった生の顔出しも色々出演していたが、「やっぱりアテレコっていうのは面白いな」と思い、どんどんそちらに行って、30歳前からはほとんどアテレコだけになったという[13]。室生犀星の詩や、太宰治、シャルル・ボードレールなど色々なものを勉強をするため、喫茶店やレストランなどで詩の会をしていた[2]。のちに妻となる19歳の頃の恋人も詩や中原中也などが好きで、21歳の頃の昭生を見に来て知り合ったという[2]。
1977年から1986年にかけて、スラップスティックのリーダー、ベーシスト(当初はギター担当で、後にパートが変わった)としても活躍した[8][13][20][21][22]。
1980年時点では家は小さかったが、野菜を少し作ったこともあり[2]、妻がナチュラリストだったこともあって家族全員で大分県竹田市荻町[23]の山奥に引っ越しして[24]、自給自足の生活をして一時は声優活動を休止していた時期もある[17]。
長男の裕史が20歳の時に就職した際、昭生は「農業に飽きたから東京に戻る」と言い出した[25]。その後は東京と九州を行ったり来たりしながら声優の仕事を続けていた[26]。
九州のローカル局でアナウンサーの講師をしていた時期もある[26]。 声種はバリトン[2]。ちょっと高めだが、温かい声が魅力的[27]。 アニメ、外画を中心に、ナレーションでも活躍している[6]。特に外国映画の吹き替えが多く、セリフも難しく収録も大変だが、外国映画が一番好きだという[28]。
人物
特色・役柄