野島 昭生(のじま あきお、1945年4月6日[2][3][4][12] - )は、日本の声優、俳優、ナレーター[6]。東京都杉並区[4]、西東京市出身[5]。シグマ・セブン所属[7]。
3人の息子がおり、長男の野島裕史と次男の野島健児は共に声優[5][8]、三男は作家の野島智司[8][9]。孫(健児の長男)は俳優の野島透也[10]。
代表作に『ナイトライダー』(K.I.T.T.〈ナイト2000〉)や『ナイトライダーNEXT』(K.I.T.T.〈ナイト3000〉)、『CSI:科学捜査班』(ギル・グリッソム)などがある[11][13]。 満洲国(現:中華人民共和国)撫順市で誕生したが、父は生後40日目に終戦のわずか一か月前に召集されて戦死[3][4]。終戦後、母と姉ともにソ連軍に追われながら、日本に引き揚げた[3][4]。東京都杉並区の四畳半のアパートに住み、母が外で働き詰めに働き、姉と共に育つ[3][4]。そのような環境で子役として芸能界に入ったと語っている[3]。 子供ながらに変なプライドがあり、テレビ局からは車で送り迎えをしてもらっていたが、家を見られるのが嫌だったため、家まで送ってもらったことは無かった[3]。そのため、家近くのカドまでくると、「ボク、ここでいいです」と降りてしまったという[3]。子供の頃から明るく活発な性格で、その性格に芸がカバーされているという[3]。1981年時点でも「幼年期のコンプレックスの裏返しかナァ」と思うようなところもいっぱいあり、「妻はわかってるようだが……」という[3]。また小さい頃からサービス精神旺盛であり、義理のオジが「俳協で彼の紹介で子供の芝居があるから」と言い、偶々観に来ていたプロデューサーが「テレビに出ないか」と誘ったという[2]。1954年頃からテレビとラジオの両方の仕事をしていたという[2]。当時はラジオ東京(のちのTBSラジオ)のラジオ、のちにテレビで同時生放送されていた教養番組『ぴよぴよ大学』の5代目矮鶏(ちゃぼ)博士として約2年半出演していた[2][4][3][14]。 小学5年生の時に劇団東芸[15]の青年部のようなところに入団し、高校2年生までテレビドラマの子役として活躍していた[2][4][14]。当時は森山周一郎、大塚周夫、富田耕生らが20歳そこそこの若手俳優としてその劇団に所属していた頃だった[4][14]。子役時代に同じ劇団に所属していた野沢雅子に手を引っ張ってもらいNHKに通っていた[14]。劇団で色々な仕事をしていく中でラジオドラマに出演[14]。声優としても子役時代から活動しており[16][13]、洋画のアテレコにも数多く出演[4]。初仕事は外国映画『地方検事』であったが、セリフはたったひと言であり、父親が殺されてショックで口を開けなくなった子ども役であった[3]。 東京都立井草高等学校卒業[17][18]。学校卒業後、その頃は『ローハイド』のアテレコをしていたが、「どうしようかな」と考え、「じゃ、芝居をやろう」ということで、それだけでは食べていけないことからアルバイトをして生活していた[2]。その後、東京俳優生活協同組合[15]に所属[2]し、1989年にシグマ・セブンへと移籍[19]。 本格的にレギュラーをもらってから印象に残っているのは、『ナンシーはお年頃
経歴
室生犀星の詩や、太宰治、シャルル・ボードレールなど色々なものを勉強をするため、喫茶店やレストランなどで詩の会をしていた[2]。