妻との結婚は、出会いから2年か3年して劇団を退団した時であったことからお金もなく、結婚式もできなかった[2]。その時に「一緒に住んじゃおう」というため、籍だけ入れておいていた[2]。しかし「子供が生まれる」というため、「式の写真がないとまずいんじゃないか」ということで、向こうと野島の親戚の20人ぐらいで、父の墓の前で仏前結婚をすることになった[2]。ちょうど住職も若く、「初めてだから練習のためにやろう」ということになった[2]。野島の結婚式の仲人は、花沢徳衛だった[3]。その後、曽我部和恭の結婚式を見た際には「こんな多くのみんなに祝福されていいいな」と思ったという[2]。
息子たちとの共演の機会も何度かあり、実際に親子役で共演することが多い。裕史が主演の『スケアクロウマン』ではゲストとしてシュタインの現在の声を演じ、その過去の声を健児が担当したことで親子三人での共演が実現した。『スケートリーディング☆スターズ』でも息子たちが演じる双子の兄弟の父親役を演じ、親子三人での共演を果たしている。
健児によると、昭生との共演の機会に「芝居のアプローチが僕とは全然違うんだな」と感じていた[33]。昭生はたとえノイズ等でリテイクが出たとしても、全く同じクオリティで常に120点出すという芝居のアプローチをしていた[33]。健児は昭生の芝居のアプローチは絶対真似できないことであり、「すごいな」と思った[33]。健児は小さい時から昭生の仕事を見てきたが、そういうことは共演してはじめてわかったという[33]。
職業としての声優は時間が決まってないため、幼少期の健児は昭生が仕事に行くたびに「今日は、何時に帰ってくるの?」と聞いていた[30]。健児が「今日は遅くなるから、先に寝ちゃってるよ」と言うと、昭生は「今日は早いから、おみやげ買って帰るよ」と答えたりして、昭生が帰ってくるのを楽しみにしていた[30]。昭生はイベント、吹き替えの仕事が行われることが多い日曜日になるべく休み、健児たちを遊びに連れていったという[30]。1981年時点では「必ずおフクロのところに遊びに行く」のが一家のルールであった[3]。
健児は物心つく前から昭生の声をテレビで見聞きし、ポスターに昭生の姿が写ってる情景を見て育ったため、役者というのが身近な仕事の一つという意識があったという[34]。健児が学校で人形劇などの教育放送を見て、テレビから流れる声が昭生の声だった時には、誇らしい気分であったという[35]。健児は自慢気に「あれ、パパの声だよ」と言いながら、「ああ、僕もいつかああいうのをやりたいな」とも思っていたと語る[35]。
家にも昭生の台本がたくさん置いてあり、健児はそれを見せてもらったり、実際に昭生が練習しているところも見ていた[35]。そのように昭生が真面目に仕事をしている姿を見るというのは子供の健児にとって「凄く良かった」と感じていたと語る[35]。
健児は昭生に「子役をやりたい」と話したことはあったが、妻の方が芸能活動に反対していたと語る[34]。
健児は昔、昭生の芝居を見て、「なぜあんなに濃い、大げさな芝居をするんだろう? もっとナチュラルに演じられないのかな?」と不思議に思い、すごく嫌で聞いてても恥ずかしかった[36]。しかし、後年に健児が青二塾に入塾して初めて「声の世界というのは、ナチュラルな芝居をしていては伝わらないものがあるんだ」と気づいたと語る[36]。
息子たちが学校を中退する決断は色々な意味で「たいへんな道」であったといい、妻とともにめちゃくちゃ怒っていた[35]。
コンスタンチン・スタニスラフスキーのスタニスラフスキー・システムを持っており、健児が声優になる前に「まずは演技について勉強しなさい」と渡していたが、放置されてしまった[30][34]。
裕史は当時、就職した仕事があるため九州に残ったが、昭生は何か思うところがあり、「農業からもう一度、本腰を入れて役者の仕事をやりたい」と、健児と大学受験を目指していた智司を連れて一緒に上京したという[34]。
健児には青二塾を「知り合いも教えているし、芝居も基礎から教えてくれる。試験を受けてみろ」と昭生が勧めたことで健児は青二塾に入塾したという[34][36]。
青二塾時代の健児は、自分が昭生の息子だと、青二塾の同級生には誰にも言わなかったという[37]。その時の健児は昭生の言っていることが全然わからなかったといい、昭生もそれを理解したのか、何も言わなくなった[38]。健児によると、昭生から言われたのは「ちゃんと栄養のあるものを食べなさい」、「自己管理をちゃんとしなさい」、ということだけだったという[38]。健児が創作SF時代劇をして源義経と戦う想定のストーリーで樋口兼光役を演じていた時、その卒業公演には妻とともに見にいっていた[39]。
昭生は声優デビューを果たした健児に、「ここからが始まりだからな」「新人だからといって、新人づらをするな」と言っていた[40]。「新人はできなくて当たり前なんだから、萎縮せずに堂々として、できないことは真摯に学べ」という意味だったが、当時の健児はそういう意味だとはわからなかった[40]。その後、健児は「先輩すみません、ドア開けます」のようにせず、ひとりの人間として「そこにいなさい」と昭生が言ってたのはそういう意味だと後で気がついたという[40]。また、健児が声優デビュー以降の苦しかった5年間、昭生に「どうしたらいいんだろうね?」ぐらいは言っていたが、真剣に相談はしてなかったという[33]。
健児が出演していた『ちびまる子ちゃん』のオンエアを昭生に観てもらったところ、「いいじゃないか」「そのまま行きなさい」「全然、遜色ないよ。自信を持ってやりなさい」と評価され、健児は「認められた。これなら声優を続けられる」とその言葉に救われたという[40][33]。
息子2人に芝居や声優界についてのアドバイスは何もしたことないという[13]。「今度、こういう仕事をやるんだよ」「へえ、そうなんだ」というくらいの話はするが、「これはこうだよ」「ああだよ」という話は、一切していないという[13]。
『CSI:科学捜査班』に偶々、ディレクターの粋なはからいで、裕史と健児と健児の妻を一緒に呼んでくれたことがあった[13]。4人で同じスタジオに入り、仕事をして、皆は平気にしていたが、内心一番ドキドキしていたのは昭生ではないかと語っている[13]。 1980年時点では自分が出演した作品は極力見るようにしているが、毎晩のように外で飲むため、ほとんど見れないという[2]。水・金はレギュラーをしていることから見られなかった[2]。
その他エピソード