野島昭生
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当時はラジオ東京(のちのTBSラジオ)のラジオ、のちにテレビで同時生放送されていた教養番組『ぴよぴよ大学』の5代目矮鶏(ちゃぼ)博士として約2年半出演していた[2][4][3][14]

小学5年生の時に劇団東芸[15]の青年部のようなところに入団し、高校2年生までテレビドラマの子役として活躍していた[2][4][14]。当時は森山周一郎大塚周夫富田耕生らが20歳そこそこの若手俳優としてその劇団に所属していた頃だった[4][14]。子役時代に同じ劇団に所属していた野沢雅子に手を引っ張ってもらいNHKに通っていた[14]。劇団で色々な仕事をしていく中でラジオドラマに出演[14]。声優としても子役時代から活動しており[16][13]、洋画のアテレコにも数多く出演[4]。初仕事は外国映画『地方検事』であったが、セリフはたったひと言であり、父親が殺されてショックで口を開けなくなった子ども役であった[3]

東京都立井草高等学校卒業[17][18]。学校卒業後、その頃は『ローハイド』のアテレコをしていたが、「どうしようかな」と考え、「じゃ、芝居をやろう」ということで、それだけでは食べていけないことからアルバイトをして生活していた[2]。その後、東京俳優生活協同組合[15]に所属[2]し、1989年シグマ・セブンへと移籍[19]

本格的にレギュラーをもらってから印象に残っているのは、『ナンシーはお年頃(英語版)』であり、そのレギュラーで初めて本格的にアテレコをやり始めた[13]。当時は声だけでなく、スタジオドラマ、TV映画といった生の顔出しも色々出演していたが、「やっぱりアテレコっていうのは面白いな」と思い、どんどんそちらに行って、30歳前からはほとんどアテレコだけになったという[13]

室生犀星の詩や、太宰治シャルル・ボードレールなど色々なものを勉強をするため、喫茶店やレストランなどで詩の会をしていた[2]。のちに妻となる19歳の頃の恋人も詩や中原中也などが好きで、21歳の頃の昭生を見に来て知り合ったという[2]

1977年から1986年にかけて、スラップスティックのリーダー、ベーシスト(当初はギター担当で、後にパートが変わった)としても活躍した[8][13][20][21][22]

1980年時点では家は小さかったが、野菜を少し作ったこともあり[2]、妻がナチュラリストだったこともあって家族全員で大分県竹田市荻町[23]の山奥に引っ越しして[24]自給自足の生活をして一時は声優活動を休止していた時期もある[17]

長男の裕史が20歳の時に就職した際、昭生は「農業に飽きたから東京に戻る」と言い出した[25]。その後は東京と九州を行ったり来たりしながら声優の仕事を続けていた[26]

九州のローカル局アナウンサーの講師をしていた時期もある[26]
人物
特色・役柄

声種バリトン[2]。ちょっと高めだが、温かい声が魅力的[27]

アニメ、外画を中心に、ナレーションでも活躍している[6]。特に外国映画の吹き替えが多く、セリフも難しく収録も大変だが、外国映画が一番好きだという[28]。1981年時点では声優、テレビドラマ、芝居、最終的に「どれをやりたい」とジャンルを絞るつもりはないようだが、しいていえば「全部やりたい」という[3]。「1本1本、懸命にすればそれが身についてくる」といい、最初に花沢徳衛に「毎日が勉強だ」と言われたという[3]。声の仕事の一番の魅力についてはアテレコに限れば、「役にいかになりすまして、自分が日本語版で、その役にプラスアルファをしていくか。さらにおもしろいものをつくっていくか」というところをいつも心掛けているという[13]。アフレコ開始当初の時代は全て生放送であり、それが一番嫌だったが、しばらく経って録音になった[13]

次男の健児によれば、昭生は三枚目役が多く[29]、ヒーロー作品に出演する際、戦隊ものにおけるポジションでいえばイエローやグリーンの役柄が多かったとのこと[30]。昭生は「グリーンやイエローは楽しいんだよ」と健児に語っていたが、当時の健児はそれについて理解できなかった[30]。後年健児が昭生と同じく声優業を開始した際に、「イエローやグリーンは『自由にやってください』という役が多く、脇役こそ役者の力が試されるテクニカルな仕事」であると再認識し、昭生の語っていた役柄のやりがいや楽しさを感じるようになったという[30]

『ローハイド』出演時は最初から30分通しで収録していたが、最後にトチると最初からやり直しになるため、皆必死だったという[13]。当時の昭生は高校時代から出演していたが、その頃は20代の小林修永井一郎山田康雄市川治藤岡琢也らも同じ『ローハイド』のレギュラーだった[4][14]。その後、小林、山田、市川、藤岡と次々に世を去り、2013年当時に永井に会ったところ「野島くん、『ローハイド』に出ていた声優で、今生きてるのは君と僕だけだよ」と言われたが[14]、その永井も2014年に死去[31]している。

ナレーションとアテレコの違いについては「作品の内容がどういうものなのか、どういうターゲットなのか、何を言わんとしているのかをまず把握することを考えると、同じですね・・・。


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