野島昭生
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健児は物心つく前から昭生の声をテレビで見聞きし、ポスターに昭生の姿が写ってる情景を見て育ったため、役者というのが身近な仕事の一つという意識があったという[34]。健児が学校で人形劇などの教育放送を見て、テレビから流れる声が昭生の声だった時には、誇らしい気分であったという[35]。健児は自慢気に「あれ、パパの声だよ」と言いながら、「ああ、僕もいつかああいうのをやりたいな」とも思っていたと語る[35]

家にも昭生の台本がたくさん置いてあり、健児はそれを見せてもらったり、実際に昭生が練習しているところも見ていた[35]。そのように昭生が真面目に仕事をしている姿を見るというのは子供の健児にとって「凄く良かった」と感じていたと語る[35]

健児は昭生に「子役をやりたい」と話したことはあったが、妻の方が芸能活動に反対していたと語る[34]

健児は昔、昭生の芝居を見て、「なぜあんなに濃い、大げさな芝居をするんだろう? もっとナチュラルに演じられないのかな?」と不思議に思い、すごく嫌で聞いてても恥ずかしかった[36]。しかし、後年に健児が青二塾に入塾して初めて「声の世界というのは、ナチュラルな芝居をしていては伝わらないものがあるんだ」と気づいたと語る[36]

息子たちが学校を中退する決断は色々な意味で「たいへんな道」であったといい、妻とともにめちゃくちゃ怒っていた[35]

コンスタンチン・スタニスラフスキースタニスラフスキー・システムを持っており、健児が声優になる前に「まずは演技について勉強しなさい」と渡していたが、放置されてしまった[30][34]

裕史は当時、就職した仕事があるため九州に残ったが、昭生は何か思うところがあり、「農業からもう一度、本腰を入れて役者の仕事をやりたい」と、健児と大学受験を目指していた智司を連れて一緒に上京したという[34]

健児には青二塾を「知り合いも教えているし、芝居も基礎から教えてくれる。試験を受けてみろ」と昭生が勧めたことで健児は青二塾に入塾したという[34][36]

青二塾時代の健児は、自分が昭生の息子だと、青二塾の同級生には誰にも言わなかったという[37]。その時の健児は昭生の言っていることが全然わからなかったといい、昭生もそれを理解したのか、何も言わなくなった[38]。健児によると、昭生から言われたのは「ちゃんと栄養のあるものを食べなさい」、「自己管理をちゃんとしなさい」、ということだけだったという[38]。健児が創作SF時代劇をして源義経と戦う想定のストーリーで樋口兼光役を演じていた時、その卒業公演には妻とともに見にいっていた[39]

昭生は声優デビューを果たした健児に、「ここからが始まりだからな」「新人だからといって、新人づらをするな」と言っていた[40]。「新人はできなくて当たり前なんだから、萎縮せずに堂々として、できないことは真摯に学べ」という意味だったが、当時の健児はそういう意味だとはわからなかった[40]。その後、健児は「先輩すみません、ドア開けます」のようにせず、ひとりの人間として「そこにいなさい」と昭生が言ってたのはそういう意味だと後で気がついたという[40]。また、健児が声優デビュー以降の苦しかった5年間、昭生に「どうしたらいいんだろうね?」ぐらいは言っていたが、真剣に相談はしてなかったという[33]

健児が出演していた『ちびまる子ちゃん』のオンエアを昭生に観てもらったところ、「いいじゃないか」「そのまま行きなさい」「全然、遜色ないよ。自信を持ってやりなさい」と評価され、健児は「認められた。これなら声優を続けられる」とその言葉に救われたという[40][33]

息子2人に芝居や声優界についてのアドバイスは何もしたことないという[13]。「今度、こういう仕事をやるんだよ」「へえ、そうなんだ」というくらいの話はするが、「これはこうだよ」「ああだよ」という話は、一切していないという[13]

CSI:科学捜査班』に偶々、ディレクターの粋なはからいで、裕史と健児と健児の妻を一緒に呼んでくれたことがあった[13]。4人で同じスタジオに入り、仕事をして、皆は平気にしていたが、内心一番ドキドキしていたのは昭生ではないかと語っている[13]
その他エピソード

1980年時点では自分が出演した作品は極力見るようにしているが、毎晩のように外で飲むため、ほとんど見れないという[2]。水・金はレギュラーをしていることから見られなかった[2]。テレビの仕事していることから、「子供にあまりよくない」ということでテレビはあまりつけなかった[2]。また子供たちは「アニメ禁止」であり[41]、仮にアニメを見る場合でも「これとこれ」と決めていたが、『無敵超人ザンボット3』、『科学冒険隊タンサー5』など、昭生自身が出演しているものだけは見せていたという[2]

合身戦隊メカンダーロボ』のオーディションのスタジオで偶々神谷明、曽我部和恭に隣り合わせ、「この三人がレギュラーに決まったらいいね。」と話し会って帰ったところ、期待通りに3人が合格し、レギュラーとして出演[4]。その後は意気投合し、飲みに行ってはともに語り合い、旅に出かけてはともに歌い合う仲となっていった[4]。神谷明や曽我部和恭や伊武雅刀らと東京都新宿区四谷三丁目あたりでよく飲みに行ったスナックで曽我部がギターを披露し、あまりに上手だったためにバンドを結成する気になり、古川登志夫古谷徹を迎え、スラップスティックを結成[13][14]。1回目の練習では真夏のため、全員汗だくになったという[13]アテレコとは違う世界を触れたことで、このバンド時代を「凄く楽しかった、いい経験ができた」と振り返っている[13]。すでにバンドとしての活動は終了しているが、2007年2月に元メンバーの曽我部・鈴置洋孝両名の追悼コンサートを行っている[22][42]

仲のいい声優については、誰とも親しいため「あえてこの人」というのはないが、スラップスティックのメンバーはもちろん、強いて言えば森功至石丸博也を挙げている[2]。森とは俳協時代から、長く付き合っているという[2]

役者になっていなかったら、「地味な研究の物理学者」になっていたという[3]。2つの大学に合格をしていたが、経済的理由で進学を断念したという[3]

安元洋貴は野島のことを「恩師」と語り[43]、初仕事の時には野島から稽古をつけてもらっていたという[44]

趣味・特技はギタースケート卓球[15]草野球将棋[2]カメラ[3]。所持資格普通自動車免許[7]


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