野島健児_(声優)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

その時は言葉は通じないが、皆一カ月ぐらい滞在していくため、コミュニケーションをとっていた[17]。また放課後に寄り道したり、学校行事を楽しんだりという、一般的な学生生活を経験したことがなかった[23]。山の生活について、自然の中では全てが楽しかったと語っている[21]

10代の頃から動物の声が好きであり、山に住んでいた時には動物の鳴き真似ばかり練習していた[24]。当時、朝、日が昇る前に田んぼに見回りに行ったが、そこでそっとの鳴き真似をしていた[21]。そうするとそれにつられて本物の蛙が鳴き始めた[21]。そのうち見渡す限りの田んぼ一帯が蛙の大合唱になり、自然と一体化する楽しみも覚えた[21]。2009年時点でも東京都に来てからも、野良猫と会話しているという[24]

山の家では雷雲も眼下に見えており、物凄いエネルギーで光ったり落ちたりしている雷を見ていたところ、「自然界の流れの中で自分はぎりぎり生かされているんだな」とつくづく思っていた[21]。そんな、人間が人間としてあるべき「心」を育んだ場所、現在の健児を作った場所が九州での生活で、健児の原点であるという[21]。また仕事の合間に時間があると奥多摩に行ったりして、自然の中で健児自身をリセットしているという[21]

テレビも民放は2チャンネルくらいしか映っておらず、農作業が忙しいことからテレビ自体ほとんど観ていなかった[25]

その後は18歳の頃まで九州に在住し続けた[8]。漠然と、「このまま農業を続ける生活も悪くない」という気持ちと、それに抗いたいという気持ちが常に共存していた[21]。父・昭生は東京と九州を行き来しながら声優の仕事を続けていたことから家には相変わらず台本がいっぱいあった[21]。それらを借りて読んだり、自分でも台本を書いて芝居をしており、どこかで芝居の世界と繋がっていたかったのかもしれないと述べている[21]

17歳の時に九州の自動車教習所に通っていた[21]。教習所には同世代の女子が多数来ており、仲良くなりたいとは思っていたが、免疫がないことから話かけられず、「これって男としてどうなんだろう」と思っていたという[21]。結局は最後まで話かけられず、その時の自分に対する悔しさが父・昭生に「東京に行って芝居をしたい」と話をする原動力になったという[21]
声優になるまで

進路について、このまま農業を続けていくか、もしくは他の職業にするか迷った末、父に「俳優やりたいんだけど、親父の力で映画の主役できないか?」と相談したところ「そんな簡単にできるわけねぇだろ、バカ野郎!」と叱られ、「役者になる勉強をしなくちゃいけない」、「まずは演技について勉強しなさい」と言われてコンスタンチン・スタニスラフスキースタニスラフスキー・システムを渡されるも放置[8][19]。しかし「俺もやっぱり出たい」という気持ちを父・昭生に相談して「じゃあもう一度、東京に出るか」ということになったという[21]。父から声優事務所最大手の一角を占める青二プロダクションが経営母体である俳優養成所・青二塾を「知り合いも教えているし、芝居も基礎から教えてくれる。試験を受けてみろ」と勧められ[8]1995年に東京に戻り青二塾東京校で16期生としての1年制の本科へ通い始めた[4][7][25]。入塾するまで青二が声優事務所だったことは無知だったという[25]。同期に保村真堀江一眞などがいる[25]

青二塾に入りたての頃は、同世代の人物と会話が噛み合わなかったという[25]。その時は「もっと芝居について語るのか」と思っていたところ「どんなアニメ観てる?」など戦隊物のキメポーズの話ばかりであった[25]。レンタルビデオも、好きな洋画、海外ドラマばかり観ていたため、アニメの話をされてもわからなかったという[25]。「演技の話で熱いのが養成所だ」と思っていたため意外であった[26]。しかし人間的にいい人物が多く、クラス全員と仲よくなっていった[26]。30人も集まると派閥のようなものができるが、健児はオールマイティに、全部の会に顔を出していたという[26]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:483 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef