中学時代に一家そろって大分県竹田市荻町[22]の山奥に移住し、自給自足の生活を送っていた[4][17]。当時は椎茸を栽培したり、米を作ったり、果樹を植えたり、野菜を作ったりしており、働いて得る報酬は食べ物だった[17]。中学生ぐらいから草刈り機を使用して、草刈りをして、耕運機で畑をならして、飯も作り、飽きないように週替わりで持ち場を交代して働いていた[17]。これが人生の大きなターニングポイントになったという[21]。通常の学校には通わず、アメリカ合衆国の通信制の学校を選択した[23]。当時は近所の友人とのコミュニケーションは少なかったが、特殊な環境の生活だったため、雑誌に掲載されたり、口コミでも広まり、全国から同世代の子供が月に数人は遊びに来ていた[21]。長い人物は1ヶ月ぐらいうちに滞在したりしており、フランス、ドイツなど世界各国から訪問者があり、ゲストハウスに滞在してもらうなど広く交流を持っていた[17][21]。その時は言葉は通じないが、皆一カ月ぐらい滞在していくため、コミュニケーションをとっていた[17]。また放課後に寄り道したり、学校行事を楽しんだりという、一般的な学生生活を経験したことがなかった[23]。山の生活について、自然の中では全てが楽しかったと語っている[21]。
10代の頃から動物の声が好きであり、山に住んでいた時には動物の鳴き真似ばかり練習していた[24]。当時、朝、日が昇る前に田んぼに見回りに行ったが、そこでそっと蛙の鳴き真似をしていた[21]。そうするとそれにつられて本物の蛙が鳴き始めた[21]。そのうち見渡す限りの田んぼ一帯が蛙の大合唱になり、自然と一体化する楽しみも覚えた[21]。2009年時点でも東京都に来てからも、野良猫と会話しているという[24]。
山の家では雷雲も眼下に見えており、物凄いエネルギーで光ったり落ちたりしている雷を見ていたところ、「自然界の流れの中で自分はぎりぎり生かされているんだな」とつくづく思っていた[21]。そんな、人間が人間としてあるべき「心」を育んだ場所、現在の健児を作った場所が九州での生活で、健児の原点であるという[21]。また仕事の合間に時間があると奥多摩に行ったりして、自然の中で健児自身をリセットしているという[21]。
テレビも民放は2チャンネルくらいしか映っておらず、農作業が忙しいことからテレビ自体ほとんど観ていなかった[25]。
その後は18歳の頃まで九州に在住し続けた[8]。漠然と、「このまま農業を続ける生活も悪くない」という気持ちと、それに抗いたいという気持ちが常に共存していた[21]。父・昭生は東京と九州を行き来しながら声優の仕事を続けていたことから家には相変わらず台本がいっぱいあった[21]。それらを借りて読んだり、自分でも台本を書いて芝居をしており、どこかで芝居の世界と繋がっていたかったのかもしれないと述べている[21]。