野島健児_(声優)
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長男は俳優野島透也[15][16]。母はナチュラリスト[17]
経歴
生い立ち・少年時代

東京都杉並区河北総合病院で誕生し、翌年に田無市(現:西東京市)に転居する[4]

小学校入学までピアノ教室に通っていた[4]。物心つく前から父・昭生の声をテレビで見聞きし、ポスターに昭生の姿が写ってる情景を見て育ったため、役者というのが身近な仕事の一つという意識があった[8]。周囲の友人と明らかに違いを感じたのは、学校で人形劇などの教育放送を見ていた時である[18]。テレビから流れる声が父・昭生の声だった時には、誇らしい気分であったという[18]。自慢気に「あれ、パパの声だよ」と言いながら、「ああ、僕もいつかああいうのをやりたいな」とも思っていた[18]。家にも父の台本がたくさん置いてあり、それを見せてもらったり、実際に父が練習しているところも見ていた[18]。そのように父が真面目に仕事をしている姿を見るというのは子供の健児にとって「凄く良かった」と感じていた[18]。『平家物語』の冒頭部分から始まり、「あいうえお」から早口言葉まで一連を毎朝聞いていた[18]。子供心に「すごいな」と思い、『平家物語』を暗記し、早口言葉も覚えてしまうなど、すでに日常の遊びになっていた[18]

子供の頃は古谷徹をはじめ、水島裕小山茉美らが家に遊びに来たりしていた[3]。子供の頃は家庭内では「アニメ禁止」であったといい、あまりアニメを観てなかった[13]というが、それでも数少ないアニメ視聴時間中には父・昭生と親しい声優達を何度も目にする機会があったため、テレビでアニメを見ていても声を聞いて「ああ古谷徹さんだ!」、「古川登志夫さんだ!」など中の人が頭に浮かび、役者達に意識がいっていたかもしれないという[19]。一度、父・昭生に「『Dr.スランプ アラレちゃん』が好きだ」と話したところ、後に則巻千兵衛役の内海賢二が「おお! 健児かあ、元気かあ」と電話してきてくれたことがあった[19]。その時は、千兵衛と話しているが、それとは違うそのキャラクターの先にいる「人間」を感じていた[19]。「そこでアニメはこんなに温かい人達がやっているんだ」と感銘を受けた[19]。役者としての内海を強く感じ、ドキドキしており、職業としての声優は他の人物より早く認識していたと語る[19]

当初は舞台映画などに出演する役者志望だった[19]。元々出たがりの恥ずかしがり屋であり、人見知りはするが、物心ついた頃から目立ちたがり屋だったところもあったという[18][20]。「人前に出ることを面白い」と思ったきっかけは、小学1年生の時に学芸会でしていた舞台『ブレーメンの音楽隊[20]。野島は「主人公よりもいろいろと自由に演じられる」と思い、盗賊役に立候補をしていたが、体が小さかったという[20]。立った時に小柄な野島が舞台を走り回って台詞に対する客席の反応、生で返ってくる感覚が新鮮であり、それが快感になって、「舞台を楽しい」、「これは楽しいぞ」と考えていたという[18][20]。その後は心の中で「いつか人前に立つ仕事をしたい」と思い続けていたという[20]。子供の頃から、自分で作品を書いて両親の前で発表したり、紙芝居を作って演じたり、ビデオで人形を撮影してアフレコしていた映像を見せたり、脚本を書いて近所の子供を集めた芝居をしていたりしていた[8][18][19]。そのため「子役をやりたい」と父親に話したことはあったが、母親の方が芸能活動に反対していた[8]

小学校時代、兄・裕史が学校を中退する決断をしており、当時は「そんなの、ありなのか?」というショックな出来事だったこともあったが、「これでいいのかもしれない。周りに合わせる必要もなくなるんだ。」、「自分に合わない」と判断して小学校を中退[4][18]。学校を中退する決断は色々な意味で「たいへんな道」だったといい、両親にはめちゃくちゃ怒られていた[18]。野島家は兄弟3人共、育った環境のせいなのか、元々DNDに備わった部分なのかはわからないが、少しアグレッシブな人生を歩いてきたという[18]。母は学校に行かない健児ら兄弟を積極的に色々な場所に連れて行ったといい、美術館にもずいぶん連れて行ってもらっていた[18]。一番印象的だったのは丸木美術館で、展示も聞いていた話にもとても衝撃を受けていた[18]。山の中にある美術館だったため、周辺の自然にも触れて、凄く楽しかったという[21]。その時、「自分は自然が好きなんだ」、「そういう生活をしていくうちに、会社員にならなくてもごはんが食べていける生活……山の中で自給自足する生活が、人間の究極の生き方なんじゃないか」と気付いた[21]

中学時代に一家そろって大分県竹田市荻町[22]の山奥に移住し、自給自足の生活を送っていた[4][17]。当時は椎茸を栽培したり、米を作ったり、果樹を植えたり、野菜を作ったりしており、働いて得る報酬は食べ物だった[17]。中学生ぐらいから草刈り機を使用して、草刈りをして、耕運機で畑をならして、飯も作り、飽きないように週替わりで持ち場を交代して働いていた[17]。これが人生の大きなターニングポイントになったという[21]。通常の学校には通わず、アメリカ合衆国通信制の学校を選択した[23]。当時は近所の友人とのコミュニケーションは少なかったが、特殊な環境の生活だったため、雑誌に掲載されたり、口コミでも広まり、全国から同世代の子供が月に数人は遊びに来ていた[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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