野口英世
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後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学では合格不可能であったため、医術開業試験予備校の済生学舎日本医科大学の前身)へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功し[注 7]、済生学舎に通うことが可能となった。済生学舎の近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。
1897年(明治30年)
臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学助教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。その結果、打診が可能になり、10月、後期試験にも合格[注 8]。21歳で医師免許を取得した。医師免許は取得したものの、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から臨床医の道を断念し、基礎医学研究者の道を歩むことを決心する。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。
1898年(明治31年)
10月 - 順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める[注 9]。研究に携わることはなかったが、語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。同年8月、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊廓などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意する。郷里の小林に相談した結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた[注 10]。本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した。
1899年(明治32年)
4月 - 伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。5月 - 伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚した。野口はこの事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港において検疫所検疫官補となる(旧長濱検疫所一号停留所参照)。6月 - 横浜港に入港した“亜米利加丸”の船内でペスト患者を発見・診断した。10月 - 検疫官補の仕事ぶりが認められ、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省から要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。清国では牛荘を中心に一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受けて残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大学・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得ることはできなかった。
1900年(明治33年)
6月 - 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化。7月 - 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷。小林に留学資金の融通を要請するも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否される。再び神田・東京歯科医学院(より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻る。12月5日 - 箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航[注 11]。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。この蛇毒の研究は、同大学の理事であり野口の指導に当たっていたサイラス・ミッチェル(英語版)からも評価された[注 12]
1901年(明治34年)
ロックフェラー医学研究所が設立される。この研究所の設立にあたっては、フレクスナーが組織構成を任されていた。キューバの眼科医カルロス・フィンレーとアメリカの軍医、ウォルター・リード(英語版)大佐が人体実験により黄熱が蚊により伝染することを突き止める。また黄熱患者の血清を細菌濾過器に通過させることにより、黄熱病病原体が血液中にあり、それが濾過性のウイルスであることを証明する(野口は後年の南米での黄熱研究でこの証明を受け入れていない)。
1903年(明治36年)
10月 - フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続け、トーバル・マッセン(英語版)との連名でいくつかの論文を執筆する。
1904年(明治37年)
10月 - アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。
1905年(明治38年)
血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄。
1911年(明治44年)
8月 - 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなる(ただし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功した者がいない。試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は野口の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)[注 13]京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、医学博士の学位を授与される[12]。「京都大学の人物一覧#博士号取得者」を参照4月10日 - 34歳で、同じ年のアメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚する。
1913年(大正2年)
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織において確認し、この病気と梅毒との関連を明らかにした。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものであった。小児麻痺病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表(ただし、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)。
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