重慶
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2014年にはシェールガスの開発・生産もみられた[4]
気候

盆地であるが故に夏は酷暑となり7月の平均気温は28.3度に達し、湿度も高く非常に蒸し暑く不快指数は非常に高く、日中は猛暑日となり、最低気温が30度を下回らないことも珍しくない。いずれも長江流域の武漢南京と並んで「三大火炉」と呼ばれている。冬季の1月の平均気温は7.9度、平均最低気温は6.2度と内陸盆地に所在するにもかかわらず、かなり温暖である。これは秦嶺山脈が北からの寒気を遮ることと、日照時間が少なく常に曇っているため、放射冷却が少ないからである。年中曇りや雨の日が多く、中国で最も日照時間が少ない都市のひとつである。ケッペンの気候区分では、温暖湿潤気候(Cfa)と温帯夏雨気候(Cwa)の境界にあたる。


重慶市(1981?2010年平均、極値1951?2013年) の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)18.8
(65.8)24.5
(76.1)34.0
(93.2)36.4
(97.5)38.9
(102)39.8
(103.6)40.9
(105.6)43.0
(109.4)41.9
(107.4)35.1
(95.2)29.2
(84.6)21.5
(70.7)43.0
(109.4)
平均最高気温 °C (°F)10.3
(50.5)12.9
(55.2)17.7
(63.9)23.0
(73.4)27.2
(81)29.4
(84.9)33.0
(91.4)33.2
(91.8)28.3
(82.9)21.7
(71.1)17.1
(62.8)11.5
(52.7)22.1
(71.8)
日平均気温 °C (°F)7.9
(46.2)10.0
(50)13.8
(56.8)18.5
(65.3)22.6
(72.7)25.1
(77.2)28.3
(82.9)28.3
(82.9)24.1
(75.4)18.6
(65.5)14.2
(57.6)9.3
(48.7)18.4
(65.1)
平均最低気温 °C (°F)6.2
(43.2)8.0
(46.4)11.2
(52.2)15.4
(59.7)19.3
(66.7)22.1
(71.8)24.8
(76.6)24.7
(76.5)21.2
(70.2)16.5
(61.7)12.2
(54)7.7
(45.9)15.8
(60.4)
最低気温記録 °C (°F)?1.8
(28.8)?0.8
(30.6)1.2
(34.2)2.8
(37)10.8
(51.4)15.5
(59.9)19.2
(66.6)17.8
(64)14.3
(57.7)6.9
(44.4)0.7
(33.3)?1.7
(28.9)?1.8
(28.8)
降水量 mm (inch)19.7
(0.776)23.4
(0.921)43.0
(1.693)96.5
(3.799)146.7
(5.776)193.8
(7.63)186.0
(7.323)135.1
(5.319)105.6
(4.157)85.7
(3.374)48.2
(1.898)24.3
(0.957)1,108
(43.622)
平均降水日数10.09.811.914.315.515.712.511.312.716.111.59.8151.1
湿度84807777778176747985848579.9
平均月間日照時間20.629.764.993.6109.497.7158.6167.0106.650.435.920.4954.8
出典: ⇒中国气象局 国家气象信息中心 2014-01-01

歴史
古代

戦国時代、諸侯の国の巴国は現在の重慶地区の江北区・?江において都を定めている。張儀が蜀に入って巴国が消えた後に、江州に兵隊を駐屯させて江州城を築いた。秦・漢の江州城の所在地は現在の江北区、三国時代以降の江州城の所在地は現在の渝中区長江・嘉陵江の合流地の「朝天門」の近くにある。重慶は、史書の記載に遡ると、2020年まで2336年間の歴史を有する。秦が全国を36郡に分け、重慶はその一つとして「巴郡」となった。漢代の巴郡は江州を語って、益州の州長官部に所属した。魏晋南北朝時代、巴郡は荊州、益州、巴州、楚州に属している。

南宋の景定2年(1261年)に、蒙古軍は成都を攻め落とし、宋軍は重慶に後退して守勢をとった。彭大雅は重慶府知府を担当。都市防衛の為、彭大雅は全力を尽くして重慶城を北へ嘉陵江まで、西へ現在の臨江門を拡張した。拡張後の範囲は大体三国時代の李厳が拡張する江州城に比べて2倍拡大して、明・清時代の重慶の基礎を打ち立てた。
清王朝時代

1876年9月13日、イギリスは「マーガリー事件」を口実にし、清政府と中英「芝罘条約」(煙台条約)を締結した。それをきっかけで、イギリスが重慶に領事を駐在させることができるようになった。1890年3月31日、中英は「新訂芝罘条約が継続してもっぱら条を増加する」を締結して、貿易港として重慶を確定した。1891年3月1日、重慶税関が朝天門の近くで設立した。

1895年、清帝国は日清戦争の中で日本に打ち負かされて、当時4月の締結する「下関条約」の中規定によって、重慶は日本に内陸の貿易港として開放された。同時に、イギリスとフランスがそれぞれ重慶で領事館区を創立した。
中華民国時代韓国臨時政府遺跡地重慶大爆撃の遺跡

1929年(民国18年)、重慶は巴県から切り離され、国民政府の2級の乙等の省管轄の都市四川省に所属するようになった。

1936年、管理する1等国家直轄市となり、貴州省の遵義地区など統轄した。

1939年(民国28年)5月5日、南京国民政府は、重慶を甲等の国家直轄市に昇格させ、管轄区域の範囲は大体今重慶の主な市街区域である。日中戦争首都であった南京が陥落すると、1938年?介石中国国民党は首都機能を重慶に移転させ、重慶の北碚市(現在の北碚区)において中華民国の中央行政院と臨時政府が設置された。


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