重宗雄三
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1959年(昭和34年)、岸内閣に運輸大臣として入閣する。1961年(昭和36年)、電気機械工業に携わり技術向上、品質改善図って国産化につくして日本ブランド輸出振興に努め、関係団体要職に就いて業界の指導に当たり産業経済の発展に寄与したとして藍綬褒章受章[2][4]自民党参議院議員会長などを経て、1962年(昭和37年)に参議院議長に就任する。1963年(昭和38年)明電舎会長[2]1965年(昭和40年)春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章[5]
参議院議長

3期9年間にわたり参議院のドンとして君臨し、池田勇人及び佐藤栄作両政権を支えた。その影響力の強さから、佐藤と岸信介とともに長州御三家と呼ばれた。佐藤も重宗の意向に逆らっては法案審議もままならぬとて、しばしば議長室に自ら赴いて頭を下げるほどであった。

議長在籍時も自民党籍を持っていた重宗は、参議院自民党の過半を占める議員グループ「清風クラブ」を牙城に、参議院をまとめた。参議院自民党のトップとして閣僚人事にも影響を与えたため、閣僚推薦権を持っているはずの自民党参議院議員会長林屋亀次郎ら)の存在感は薄らぐ一方であった。ポスト欲しさに日参する参議院議員は多く、「重宗詣で」と呼ばれた。その権勢から「重宗天皇」と称され、参議院は「重宗王国」とまで呼ばれた。

重宗は自民党全盛時代の参議院自民党の力をフルに活用し、しばしば危惧されていた「参議院の独自性」を守ろうとした節がある(松野鶴平の例と同じ)。議長時代には議事整理権などを駆使し、日韓基本条約大学措置法沖縄返還協定強行採決をおこなった。

その独裁的な振る舞いや、総裁四選後の佐藤との関係悪化、さらには角福戦争も重なる中、「長いことはいいことだ」と四選を確信して議長選出馬宣言をする。しかし、河野謙三らのグループ「桜会」の批判勢力が台頭し、河野の議長選出馬を断念させる条件として自らが出馬断念に追い込まれ、1971年(昭和46年)7月17日退任。さらに、重宗が後継議長候補として推した木内四郎に反発した自民党の一部議員と野党が推した河野が当選している。

参議院議長在任日数の3,242日は参議院史上最長記録である。

1973年(昭和48年)春の叙勲で勲一等旭日桐花大綬章受章[2][6]1974年(昭和49年)に政界引退、参議院議員当選5回を重ねた。1976年(昭和51年)3月13日死去、82歳。同年3月22日、青山葬儀所で自民党葬、告別式が行われた[7]。死没日をもって従二位に叙され、銀杯一組を賜った[8]。墓所は谷中霊園(乙11-12)
エピソード

参議院議長としての超然・強引さが目立ったが、必ずしも重宗の本意でない場合もあった。
大学臨時措置法の強行採決は、当時自由民主党幹事長だった田中角栄の「じいさん。早く〔本会議の〕ベルを鳴らせ。やらなきゃ、このオレが許さんゾ」(早坂茂三の回想)という直談判の末であった[9]

自民党有力者から一字ずつ取った「三角大福」という造語を作ったのは重宗という説がある。

佐藤栄作は重宗の協力・支持を得ることで、長期安定政権を築いた。しかし双方とも必ずしも好感情を持っていなかった。重宗は佐藤と顔を合わせても、「総理」という敬称は決して使わなかった。石原慎太郎は著書『国家なる幻影』で、「ここは俺の城下だといわんばかりに、道を譲った〔佐藤〕総理に一顧だに与えず通りすぎていった」重宗の姿を記している。

河野謙三ら反重宗グループ「桜会」は当初、参院自民党でも十数名程度の勢力にすぎず、重宗支持派が圧倒していた。このことから馬肉(サクラ肉)とかけ、「サクラはたいしたこたぁねえ」と発言している。この侮りが河野の議長当選につながり、さらに河野と親しい田中角栄の角福戦争勝利を招来した。

一方、毎年冬になると郷里の鱈と河豚を振舞う「たらふく会」を主催し、多くの議員で賑わったと言う。

1981年に岩国市内の吉香公園に重宗の銅像が建立されている。付属する岸信介撰の碑文において、山陽新幹線新岩国駅の設置をはじめ、岩国港重要港湾指定、国鉄岩日線開通、錦帯橋復旧が重宗の地元への貢献として列挙されている。

選挙歴

当落選挙施行日選挙区政党得票数得票率得票順位
/候補者数比例区比例順位
/候補者数
第1回参議院議員通常選挙1947年10月7日全国区無所属112,098'61/258--
第2回参議院議員通常選挙1950年6月4日全国区自由党205,517'33/?--
第4回参議院議員通常選挙1956年7月8日全国区自由民主党354,568'9/150--
第6回参議院議員通常選挙1962年7月1日全国区自由民主党491,044'25/107--
第8回参議院議員通常選挙1968年7月7日全国区自由民主党882,036'5/93--
当選回数5回 (参議院議員5)

親族

弟にトーキー映画監督の重宗和伸(重宗務)、子息の重宗昌幸は父の没後に、1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙旧山口2区から自民党公認で立候補したが、落選している。
脚注[脚注の使い方]^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』128-129頁。
^ a b c d .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}重宗 雄三. コトバンクより2023年5月30日閲覧。
^ 『官報』第5881号、昭和21年8月21日。
^ 『官報』第10309号57-62頁 昭和36年5月4日号
^ 『官報』第11513号14頁 昭和40年4月30日号
^ 『官報』第13905号6頁 昭和48年5月4日号
^ 故重宗雄三の自民党葬『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月16日夕刊、3版、11面
^ 『官報』第14758号13-14頁 昭和51年3月18日号
^ 早野透『田中角栄』(中公新書、2012年)、211-212頁。

参考文献

衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目

新谷寅三郎

迫水久常

鍋島直紹

田中龍夫

公職


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