里見八犬伝_(1983年の映画)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

当時、東映はサンミュージックと提携して『野菊の墓』を皮切りに松田聖子主演映画を東映の盆暮(夏休みと正月興行)の看板にするとサンミュージックと約束を交わしていて[12]、『野菊の墓』封切り時には岡田茂東映社長も「(1982年の)正月映画も聖子でいく」とはっきり言明していた[13]沖田浩之の映画出演争奪戦にも勝って、聖子、沖田のそれぞれの主演映画を1982年正月映画として考えていたが[13][14]、棚ぼたで薬師丸を東映に取り込むことができ[13][15]、薬師丸の1981年後半からの人気急上昇で[15]、松田聖子の映画を急いで作る必要がなくなった[15]。角川は、松竹が自身を新参者扱いして映画界から締め出そうとしているという被害妄想を持ち続けていたため[16]、松竹との折り合いはあまり良くなく[16]、当時は配給は東映に頼むしかない状況だった。サンミュージックサイドから東映に「聖子の次回作のスケジュールはいつ空けようか」と何度も照会が来るようになったため[15]、岡田東映社長は1981年12月に入り、吉田達プロデューサーにサンミュージックに製作延期のお詫びに行かせたが[15]、吉田が「間に合ってます」などと失礼な言い方をした[15]。この直後、1981年12月暮れに薬師丸が「1982年は大学受験のために仕事を控える」と休業宣言をした[15]。東映は大ショックで薬師丸の映画が製作できず、松田聖子の映画は先のお詫びが遠因で東宝に移るという事態に陥った[15]。当時の映画誌では「せっかく『セーラー服と機関銃』で人気が爆発したのに、薬師丸のようなタイプの女優は長期休業したら人気は保てないのではないか」という論調もあった[15]。その後東映は『里見八犬伝』の製作準備を進めていたが、薬師丸の大学入試などがあって製作がのびのびになり、1983年になってようやく製作が始まった[11]。 
脚本

角川は脚本の鎌田敏夫に「『南総里見八犬伝』をベースに『レイダース』があり『スター・ウォーズ』があり『フラッシュ・ゴードン』や『アメリカン・グラフィティ』があってほしい」と希望を出し[8][10]、それらの映画を鎌田に観てもらった[9]。角川は脚本の段階でヒロインは薬師丸のイメージしかなく[9]、構造的には、静姫はレイア姫で、親兵衛ルーク[9]。それを汲み入れた脚本第一稿は『魔界転生』と『伊賀忍法帖』を合わせたような話で[8]、脚本第二稿から加わった深作がそれらのモチーフを全て削除し『魔界転生』に近いどろどろした世界に変えた[9][10]。角川は薬師丸と真田のアイドル映画、その時代の最高の人気を二分するアイドルが演じてこそ『里見八犬伝』という基本的な考えをもっていたためこれを拒絶[9]、第三稿が作られたがさほど変わらず。角川は一旦映画を中止すると告げ、深作を外した。「あんたが入ると駄目だ。退いてくれ」と告げた角川に、深作は「角川さん、僕を信用しないんだ?」と食い下がったが、「信用なんかするわけないじゃないか」と角川は取り合わず、第五稿以降は、鎌田一人で作られ[17]、これを角川が気に入り[8]、ゴーサインを出した[10]。脚本クレジットは鎌田と深作の共同になっている。

ちなみに『スター・ウォーズ』へのオマージュとして、親兵衛(ルーク)が静姫(レイア姫)を抱えてワイヤーで移動するシーンがある。
キャスティング

1983年2月1日の『探偵物語』製作発表会見の日に[18]、角川が薬師丸に「『里見八犬伝』をやりたくなけば延期していいからお前が判断しろ」と言ったら、薬師丸が「今年中に十代でやりたい」というので、会見後に薬師丸を深作に会わせた[9]。脚本は薬師丸がヒロインイメージであったが、そのころ原田知世の人気が上がっており、薬師丸が断ったら原田の主役でやるつもりだった[9]

当初、深作は真田以外にJACを起用することは考えていなかったが、脚本を忠実に再現できるアクションをこなせる俳優を考えたときにやはり千葉のところでやるしかないとの結論に至り、最終的に八犬士の半数がJACメンバーとなった[19]
撮影

撮影の仙元誠三は、1983年2月から準備に入って、その年12月まで撮影したと話している[20]北野武監督との名コンビでも知られる柳島克己キャメラマンも、本作品でノンクレジットながら、仙元に「ひと月でいいから手伝ってくれ」と言われ京都に行き、撮影は延々終わらず[21]、一度別の冬ものの映画を撮りに東京に戻り、再び京都に行き、本作品を公開直前の12月まで撮影したと話している[21]。当時小学5年生だった深作健太が撮影を見学していたという[21]。また1992年の『いつかギラギラする日』もノンクレジットながら撮影応援をして[21]2000年の『バトル・ロワイアル』でようやく深作から「ルーズな画がいい」と褒められオファーを受け、同作の撮影を担当した[21]

主たる撮影は1983年7月から9月までの3ヶ月間[22][23]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:143 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef