シッダールタはシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけるが[要出典]、「教えることが無くなりました」と教師が辞任を申し出たという話があるほど聡明であったと言われている[34]。16歳または19歳で@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}母方の従妹の[要出典]ヤショーダラーと結婚し、跡継ぎ息子としてラーフラをもうけた[7]。 当時のインドでは沙門といった修行者が出現し、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、アーリア人による伝統的価値観とは異なる新思想運動を展開していた[35]。「インド哲学」および「アースティカとナースティカ」も参照 釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、四門出遊の故事がある[7]。釈迦が初めてカピラヴァストゥ城から外出したとき、最初の外出では老人に会い、2回目の外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会い、この身には老いも病も死もある、との避けられない苦しみを感じた(四苦)[36]。4回目の外出では一人の沙門に出会い、老いと病と死にとらわれない違った生き方を知り、出家の意志を持つようになった[37]。 「なぜ私は、みずから生の法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、みずから老の法を有する者でありながら老いるものを求め、みずから病の法を有する者でありながら病めるものを求め、みずから死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、みずから憂の法を有する者でありながら憂いを求め、 みずから煩悩の法を有する者でありながら煩悩を求めているのだろうかと。[38][39]」 シッダールタは王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した[7][39]。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜にシッダールタは王城を抜け出した[7]。当時の大国であったマガダ国のラージャグリハを訪れ、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った[7]。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った[40]。シッダールタは、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[7]、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師はシッダールタの優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、シッダールタはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った[41][40][7][42]。
出家