釈奠
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日本でも中国と同様に釈奠において動物の肉を捧げることが基本とされてはいたものの、前述の薩摩国正税帳によれば肉の代替として脯・鰒などの魚介類が用いられ、国忌祈年祭との重複が忌まれてこれらと日程が重複する場合には釈奠が中止されたこと(『日本紀略』弘仁11年2月丁丑条)、唐の『開元礼』に記された「毛血豆」の儀式(犠牲として捧げた動物を割いた時に生じた獣毛や血を豆(とう)と呼ばれる器に載せて捧げる)が日本の『延喜式』では除かれていることなどが挙げられる。その一方で仁和元年(885年)には大学寮の申請に基づいて釈奠で用いる三牲(大鹿・小鹿・豕)に関する規則を定めて、止むを得ない場合には鮒鯉による代替を認めるもののあくまでも三牲は揃えるべきものと定め、神事との兼ね合いが無い限りは11世紀に入ってもこの規則は守られた。三牲が廃されたのは12世紀前期、嘉承2年(1107年)に伊勢神宮の慣例に倣って鹿の死骸を穢と定めたこと(『中右記』嘉承2年5月19日条)、これに続いて天永3年(1112年)に猪の死骸も鹿に准じるとされた際に中原師遠が釈奠に参加をするのは穢にあたるのではないか、と指摘したこと(『中右記』天永3年2月4日条)が関係していると考えられている。記録によれば、大治2年(1127年)8月10日に殺生禁断を理由に釈奠での牲を止められた(『百錬抄』)を機に行われなくなった。なお、『古今著聞集』(巻第1、神祇第一、12「或人の夢に依りて大学寮の廟供に猪鹿を供へざる事」)によれば、ある人の夢に孔子が現れて「日本では伊勢大神宮への礼に従って穢食を供すべからず」と告げたとする説話が載せられている[4]。それ以外にも天皇や有力者の服喪や宮中における穢の発生などを理由として釈奠が延期されたり、釈奠後の宴が取りやめられる措置が取られることもあった。

そして、日本の釈奠に関して特筆すべきは、中国においてはしばしば行われていた皇帝による釈奠親臨が、日本の天皇に関しては神護景雲元年しか知られていないこと、これに準じるものとされた皇太子の参加も 恒貞親王仁明天皇の皇太子)が親しく釈奠に臨んだこと(『恒貞親王伝』)以外には確認できない。『延喜式』には『開元礼』に基づいて皇太子が参加を想定して規定が定められているものの、『開元礼』の釈奠における皇太子は主催者であり学生の一人として講読を行うことが想定されていたのに対して、『延喜式』の釈奠における皇太子は他の参加者からは超越した立場に立つ賓客であった(代わりに上卿が主催する)。そして、平安時代以後において釈奠翌日に内裏にて開かれた内論義の慣習自体が儒教思想と相反する側面を有していた。それは、儒教においては天子と雖も師に対しては北面(臣下の礼)を取り(『礼記』学記篇・『呂氏春秋』孟夏紀勧学篇)、釈奠の儀式もそれを前提にして行われたのに対して、日本の天皇は天子が北面する釈奠への参加を事実上拒否して、内論義という形で学者たちを召還することで南面(主君の礼)を取り続けたのであった。これは律令法を超越する存在とされていた日本の天皇の中国皇帝とは違った立場に由来すると考えられている。
中世

釈奠の簡略化・日本化が進むとともに、釈奠そのものは儒教祭祀としての色合いを薄め、公家政権における文芸・学芸にまつわる重要な公事の1つとして定着をみた。安元3年(1177年)の太郎焼亡において大学寮が焼けた際には煙の中から釈奠に必要な孔子の御影だけは運び出したほど重んじられた。同火災で大学寮が事実上消滅した後も場所を移して続けられ、藤原定家も『釈奠次第』を著して釈奠における儀礼・作法を書き残している。中世に入ると多くの朝儀が廃絶していく中で、釈奠は南北朝の混乱期に一時的な中断を挟みながらも、15世紀応仁の乱の頃まで継続されていた。その後も、地方においては足利学校九州菊池氏の聖堂などで独自に釈奠が行われた他、公家社会でも三条西実隆などが釈奠の代わりとなる詩会を開いており、釈奠の伝統が完全に途絶えた訳ではなかった。
近世

江戸時代に入ると、徳川将軍家朱子学重視政策によって林家主導の下で復興されることになった。寛永9年(1632年)、尾張藩の支援を受けた林道春によって江戸上野忍岡にある林家私邸中に先聖殿(忍岡聖堂)が建設され、翌寛永10年(1633年)2月10日に初めての釈奠が実施された。当初は林家の私的行事としての位置づけであったが、同年10月には将軍徳川家光の忍岡訪問を受けて以後、江戸幕府によって先聖殿の補修費用が出されることとなった。寛永12年(1635年)には林道春によって釈奠における講経が復興され、万治2年(1659年)には林春斎によって春秋2回の釈奠が行われるようになり、寛文4年(1664年)には同じく林春斎によって釈奠における奏楽が復興された。寛文10年(1670年)には林春斎が幕命によって編纂していた『本朝通鑑』が完成し、同年8月にはその報告を兼ねた大規模な釈奠が実施された。この時の釈奠が以後の林家における釈奠の作法として確立され、春斎はこの時の次第を元に『庚戌釈菜記』を著した。次の寛文11年(1671年)2月の釈奠では父である大老酒井忠清の命を受けた厩橋藩世子酒井忠明が参観し、以後、幕閣を含めた大名の子弟が釈奠を参観する風潮が現れるようになった。それは地方の藩校における釈奠実施の普及にも影響を与えたとされている。

延宝8年(1680年)に将軍に就いた徳川綱吉は儒学を愛好して、忍岡聖堂を度々訪れた。元禄元年(1688年)2月の釈奠には綱吉が釈奠に使う供物を献官(主宰者)である林鳳岡に贈り、また尾張藩主導で建設された忍岡聖堂に代わる幕府主導による新しい聖堂の建設を申し出た。元禄4年(1691年)、2月に新たな湯島聖堂が完成し、直後の2月11日新しい聖堂において幕府が主催する初めての釈奠が行われた。しかも、この時には将軍綱吉が老中・側近などを引き連れて参列し、釈奠後の経書の講読を自らの手で行った。更にその場において釈奠などの湯島聖堂での祭祀の経費として1000を寄進し、更に火災等に備えて聖堂火消役の設置を決めた。翌年2月の釈奠にも綱吉は参列して『論語』学而編を講義している。綱吉の釈奠参列はこの時限りであったが、以後ほぼ毎年1回のペースで聖堂に参詣して諸大名や林家の学生などを対象に講読を行ったりしている。綱吉は諸大名に対して積極的に自己の湯島聖堂参詣や春秋の釈奠に参加させ、儒学重視の風潮を諸国にも広めようとしたのである。

ところが、宝永6年(1706年)に綱吉が死去すると、湯島聖堂の釈奠も大きな影響を受けることになる。新将軍徳川家宣の側近であった儒学者新井白石は、日本古来からの釈奠に明などの歴代中国王朝の釈奠作法を持ちこんで作り上げられた林家の釈奠作法に批判的であった。これまでの釈奠のやり方にも批判を加えて『釈奠儀注』と呼ばれる著作を家宣に提出し、翌年8月4日の釈奠に家宣が参列した時には全てこの同書の説に従って釈奠が行われ、林家の作法を完全に否定されて参列のみを許された林鳳岡は面目を失った。


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