醤油
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についての最初の文献は、周王朝初期の古書『周礼』とされており、獣・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類の肉醤(ししびしお)、魚醤(うおびしお)だった[13]

穀醤(こくびしお)がはじめてあらわれるのは、湖南省から出土した紀元前2世紀(前漢時代)とされる[13]。そして紀元1世紀(後漢時代)『論衡』に豆醤の記述が、さらに6世紀中頃(南北朝時代)に執筆された農書斉民要術』に、蒸した豆と、食塩を発酵させてを仕込む方法が記載されている[13]

日本では「の類い」(果物・野菜・海草などを材料とした草醤、魚による魚醤、穀物による穀醤の3種)が縄文時代から弥生時代にあったとされているが、文献には残されておらず[13][15]、本格的に醤が作られるようになったのは、中国大陸からの「唐醤」(からびしお)や、朝鮮半島からの「高麗醤」(こまびしお)の製法が伝えられた、大和朝廷時代頃だった[13][16][17]

文献上で日本の「」の歴史をたどると、701年(大宝元年)の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。また923年(延長元年)公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名類聚抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。詳細は「」を参照

多聞院日記」の1576年の記事では固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当すると考えられている[18]
たまり

文献上に「たまり」が初出したのは1603年(慶長8年)に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述がある。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述が同書に存在し、1548年(天文17年)成立の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている。

発祥・起源については諸説あり、定かとはなっていない。
鎌倉時代の僧によって偶然できた説
メーカーのヤマサ醤油によれば、たまりの元となるものを作ったのは、鎌倉時代、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈円明国師、1207年 - 1298年)であり、覚心が南宋で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとしている[19]
金山寺味噌を由来とする説
伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型とされる[20]。ただし、この伝承を裏付ける史料は見つかっていない。
斉民要術発祥説
たまり醤油の歴史は中国大陸においては後漢代にまで遡る。特に500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体「清醤」の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来したとする説である。
たまり醤油から本格醤油へ

文献に登場しはじめた時代のたまり醤油は、原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴わない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった。この製法によるたまり醤油は16世紀を描いた国内の文献に多く現れ、17世紀に江戸幕府が開かれると、人口の増加に伴い上方のたまり醤油が、清酒や油などとともに次々と江戸へ輸送されていく[21]

木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展したため、麹は蒸した原料にコウジカビを職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。コウジカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに「すみ醤油」という名前で現れている。18世紀になると、大量生産の時代に入っていく[21][22]
17世紀の日本国外輸出

安土桃山時代から江戸時代になると、泉州産の物が名産として、全国に流通するようになる[23]。この堺産醤油の日本国外への輸出は1647年(正保4年)に出島オランダ東インド会社によって開始された[24]。この当時は樽詰めされた物が一般的だった。最初は東アジアへ、18世紀には欧州へ輸出された。伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという[25]。当時の記録によると腐敗防止のために、一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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