酒井氏
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左衛門尉家(さえもんのじょうけ)は、酒井広親の長子氏忠の家系であると伝わっているが[5]、左衛門尉系は徳川家康に仕えた酒井忠次の父から系譜が書かれており、その間の系譜は明確ではない[4]

1564年(永禄7年)に忠次は家康より三河吉田城主に取り立てられ[6]、家康が三河を支配する過程で東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した[7]。忠次の子家次の代の天正18年(1590年)に家康は豊臣秀吉の命で関東に移封され、それに従って家次も関東へ移住して下総国臼井城主となり、3万石を領した[6]

関ヶ原の戦い後、家康が豊臣氏から権力を簒奪すると家次は慶長9年(1604年)に2万石加増されて上野国高崎藩5万石に移封された[6]。さらに元和2年(1616年)に5万石加増されて越後国高田藩10万石に移封された[6]

家次の子酒井忠勝は元和8年(1622年)に3万石加増されて出羽国庄内藩(鶴岡藩)に移封された。さらに寛永9年(1632年)にも1万2000石が加増されて都合14万石余となった[6]

正保4年(1647年)には忠勝の子忠当が弟酒井忠恒に新田2万石を分与した(出羽松山藩)[6]。安永8年(1779年)に5000石加増があり、都合2万5000石を領した[8]

幕末の庄内藩主忠篤奥羽越列藩同盟の一翼を担って官軍に抗したことにより、反逆の責任により官位褫奪のうえ蟄居となり、明治元年(1868年)12月7日に庄内藩は改易となったが、同月15日にその弟忠宝岩代国会津藩12万石が与えられることで家名存続が許された。翌年6月には磐城国平藩に転封となり、同地で版籍奉還を迎えて平藩知事に就任したが、その翌月には庄内藩に再移封となった。9月に藩名を大泉藩に改名し、その後1871年(明治4年)の廃藩置県まで大泉藩知事を務めた[9]

分家の松山藩主忠良も忠篤と共に官位褫奪・蟄居となったが、その息子忠匡に2500石減封の2万2500石の領地が与えられて家名存続が許された。明治2年(1869年)の版籍奉還の際に藩名を松山から松嶺に改名して松嶺藩知事に就任。明治4年の廃藩置県まで藩知事を務めた[10]

明治2年(1869年)の版籍奉還に際して華族制度が誕生し、大泉家も松嶺家も華族に列した。華族令施行後の明治17年(1884年)7月7日に大泉酒井家の当時の当主酒井忠篤が旧中藩知事[注釈 1]として伯爵に叙された[12]。また松嶺酒井家の忠匡は同年7月8日に旧小藩知事[注釈 2]として子爵に叙せられた[14]

大泉酒井伯爵家の邸宅は山形県鶴岡市家中新町にあった[15]。かなり富裕であり、忠宝の養子となって同家の伯爵位を継いだ酒井忠良伯爵(忠篤の子)は山形県の多額納税者になっている[16]。松嶺酒井子爵家の邸宅は東京市本郷区駒込千駄木町にあった[17]
雅楽頭酒井家
宗家酒井忠世

広親の次男とされる酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれる[18]酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561年)もしくは永禄5年(1562年)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた[19]

その子重忠は家康の関東移封で武蔵国川越城を与えられて1万石を領した[19]。重忠の子忠世は家督前に自身に与えられた領地と合わせて家督後に前橋藩主8万5000石を領し、幕府の老中となり、加増されて12万石を領したが、家光の代になると疎まれて老中を解任された[20][21]

忠世の孫忠清は寛永14年(1637年)の家督の際に弟忠能に2万2500石を分与して(上野国伊勢崎藩、のち駿河国田中藩主)、10万石となったが[22]徳川家綱の代に老中首座(大老とも)として権勢をふるい「下馬将軍」と称され、加増により15万石を領した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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