酒井忠勝_(小浜藩主)
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家綱が若い頃、庭の大石を外へ出すように忠勝に命令した。忠勝はこの石を外に出すには土居や塀を崩さないといけないので堪忍してくださいと申し上げてそのままになった。そこで知恵伊豆・松平信綱が「ならばあの石は土を掘って埋めてしまえば」と述べた。しかし忠勝は「物事思いのままになると思われては天下の政務に難儀のことがあろう。石はそのままにしておいても害はないことだ。若い上様には万事容易に事を執り行なわぬがよいと思いそのように申し上げたのだ」と言い、信綱を心服させたという(『玉露叢』)[6]

76歳のとき、忠勝は病に倒れた。高齢だったために死期を悟り、看護は近習だけにして女性は近づけず、医師の勧める薬も拒んだ。しかし将軍・家綱や幕閣らは治療して早く治すように求めたため、やむなく薬を飲んだが高齢ですでに手遅れだった。忠勝の最期は端座したものだったという(『忠勝年譜抄説』)。

藩政

小浜城を作る際に、若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。これに抗議し、忠勝に処刑された庄屋である
松木庄左衛門を祭る神社が、福井県三方上中郡若狭町新道にある。水上勉は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。

小浜藩の御用商人である石屋久兵衛は息子の放蕩に悩まされていた。忠勝は石屋からその相談を受けたとき「心配するな。倅の放蕩は直る」と言った。石屋がその方法を尋ねると「石屋が倅に金をあまり持たせないようにしているのがかえって悪いのだ。倅に欲しいだけ与えれば立ち直る」と述べた。石屋は忠勝の言ったとおりにした。すると大金を目にした息子は使うことを急に惜しむようになり、遊びを止めて米相場を行ない、利益を得たという(『仰景録』)。

忠勝は幕政に参与していることが多かったが、人身売買の禁止や税制の制定、五人組の制定、治安維持、水利施設の設備、植林や開墾などを奨励した郷中法度を制定して藩政の基礎を築き上げている[7]

その他

少年時代、忠勝はぼんやりして足らぬ気で周囲を心配させたという。16歳のとき、駿府で大火があり供の者を率いて鎮火に務めて引き揚げるとき、供が喉の渇きを訴えた。大火の後だから水など無く、大火を免れた酒屋で酒を飲もうとした。しかし忠勝は「すき腹に酒を飲んでは腰が抜ける。酒屋にある粕を焼いてから飲め」と下知し、それまで心配させていた周囲を感嘆させた(
林鵞峰『玉露集』)。

忠勝は少し赤ら顔で指でちょこちょこ押したくらいの痘痕の痕があり、唇の端は垂れ少し開き気味のうば口の形などは武田信玄によく似ていると、甲州武士である田中六右衛門に評された(『仰景録』)。

大の鼠嫌いであり、ある夜に忠勝の寝所に鼠が紛れ込んだ。近習に「早く捕らえよ」と命じ、運よくある家臣の男が鼠を叩き殺したので、周囲の者はその男に膨大な褒美が出るだろうと噂した。ところが召し出された男の前で忠勝は梨を半分に断ち切り、その半分を与えたのみだった。噂していた者たちは最初は驚いたが、考えてみれば鼠一匹で立派な褒美が出るほうがそもそもおかしく、これ以上の目だった働きをした者がいたときに褒美の釣り合いがとれなくなる。そこまで先のことを考えるとはさすがは名君と賞賛したという(『仰景録』)。

伊達政宗が53歳の頃(=元和5年/1619年)、江戸城で忠勝に会い「相撲を取ろう」と言い出した。忠勝は将軍・秀忠と会見した直後のために礼服姿であったから、「またの機会に」と述べて立ち去ろうとした。しかし政宗が強引に手をかけてきたため、やむなく取り組んだ。やがて諸大名も集まり、その中の井伊直孝が「酒井が負けたら譜代の名折れぞ」と息巻いた。結果は忠勝が勝ち、「さてさて御身は相撲功者かな」と政宗は賞賛したという。ただしこれは外様の雄である政宗が譜代に機嫌をとるための八百長相撲との説もある(『明良洪範』)。

系譜

父:
酒井忠利

母:宝鏡院 - 鈴木重直の娘

正室:松平親能の娘[8]

長女:建部政長正室

次女:長松院 - 朝倉宣親正室のち松平康信継室

三女:高木正俊室

四女:松平康政正室

五女:あぐり - 堀田正盛正室

長男:酒井忠朝(1619-1662)

六女:都筑秀政室

次男:酒井忠経

七女:井伊直好正室

三男:青木可一(1627-1644) - 青木重兼の養子

四男:酒井忠直(1630-1682)

養女:水野勝貞正室 - 松平康政の娘

養女:春光院 - 牧野親成正室、高木正縄の娘


子孫

現在の皇室は忠勝の子孫である。酒井忠勝―女子(松平康政正室)―女子(水野勝貞正室)―鶴(勧修寺経敬室)―勧修寺尹隆……経逸東京極院仁孝天皇
脚注[脚注の使い方]^ 『酒井忠勝(1)』 - コトバンク
^ “家光が贈った駕籠見つかる 小浜藩主に、完全体で”. 日本経済新聞 (2018年7月31日). 2020年10月22日閲覧。
^ 森銑三著作集 続編 第一巻 91-93ページ
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P218
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P113
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P112
^ 母は荒川義広と家康の異母妹市場姫の娘、木崎殿。

参考文献

大石慎三郎『徳川十五代』 実業之日本社

大野瑞男松平信綱吉川弘文館、2010年 ISBN 9784642052580

児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵 諸侯年表』東京堂出版、1984年










忠利系雅楽頭酒井家第2代当主(1627年 - 1656年)
宗家

広親

家忠

信親

家次

清秀

正親

重忠

忠世

忠行

忠清

忠挙

忠相

親愛

親本

忠恭

忠以

忠道

忠実

忠学

忠宝

忠顕

忠績

忠惇

忠邦

文子

忠興

忠正

忠元

忠紀

忠輝



別家

忠利

忠勝

忠直

忠隆

忠囿

忠音

忠存

忠用

忠与

忠貫

忠進

忠順

忠義

忠氏

忠禄(再襲)

忠道

忠克

忠博

忠和




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