第二次世界大戦の戦災で人口が減った東京は、戦後復興の中で再び成長した。現在では、東京は、「都市」として見た場合には約1000万人の規模であるが、「都市圏」のとして見た場合には神奈川・千葉・埼玉・茨城に住宅地が広がり、3,400万人とも言われる人口を抱える規模になっている。また、大阪市も京都市、神戸市と複数の核を合わせると都市圏人口1700万人の規模であり、続いて1.5%都市圏として人口1000万人弱を抱える名古屋が、さらに地方中枢都市として福岡・札幌が都市圏人口200万人以上、仙台が160万人の都市圏となっている。
20世紀後半には、工業化の進んだ国だけではなく、途上国でも都市人口が急増した。より良い雇用や教育の機会を求めて、地方から過密都市に多量の人口が流入したためである。中国・インド・パキスタンなどの大人口国家においては、名目で1千万人を超える巨大都市を初めとして、大都市が首都以外に幾つも生まれている。
都市部への一極集中などによって大都市が過密化してくると、地方、国内の拠点だけでなく海外との交流拠点も担うグローバル化が進行するため、地価は高騰し、中心部はより高次な開発が求められるようになる。その結果、中心部に北米の大都市を思わせるような超高層ビルが建ち並ぶ大都市が幾つも見られるようになってきた。経済成長が顕著な中国・東南アジア・インド・中東(後述)については、このタイプの都市が多く、近年は内陸部の拠点都市でもそのような都市形成が行われている。住宅開発も市街地拡大に沿って行われていき、主に自動車道に沿って、中層階級のための団地が延々と建設されていくが、一方で肥大化する都市形成にインフラや交通基盤の整備などが追いつかず、道路渋滞や通勤ラッシュが慢性化している他、その外れには、都心や団地に住めない貧困層が、不法にスラムを形成している例が多い。
ヨーロッパフォロ・ロマーノ。ローマ帝国の首都であったローマの遺跡。
古代ヨーロッパにおいては、(古代ローマ帝国が、ライバル国のフェニキアとの戦いに勝ち地中海世界の覇権を握り、ヨーロッパではガリア(現在のフランスあたり)や、はるかイングランドの地あたりまでも征服することに成功した結果、ローマ帝国の首都の)ローマが200万人とも推定される巨大都市へと成長した。だがその後、商業の衰退や荘園化、相次ぐ異民族の進入や内乱による都市の破壊が進み、ヨーロッパの都市は軒並み衰退した[6]。
中世の都市人口は、最大でも40万から60万人規模(後ウマイヤ朝の首都コルドバや、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスなど。いずれもイスラム圏や東方正教会の影響圏)であった。特に、西ヨーロッパでは10万人規模を超えた例はまれであった(百年戦争休戦期のパリが推定28万人, 最盛期のヴェネツィアが推定11万人)。
大航海時代到来後、ヨーロッパ各所に10万人規模を超える都市が出現する。
産業革命後、工業の集積でロンドンが巨大化。数百万人規模の都市となり、19世紀中葉において世界最大の都市となった。その後、各地で工業化が進むにつれ、人口100万人を越える大都市が複数生まれた。
現代では、ヨーロッパの人口停滞を背景に、都市の急成長は見られなくなった。主に、各国の首都が大都市となっている他には、大都市は少ない。首都以外での大都市の例としては、バルセロナ、バーミンガム、ミラノ、ハンブルク、ミュンヘンなど、国民国家誕生以前の地方国家の首都だった都市や、産業革命で鉱工業都市となった都市がある。
機能的でフレンドリーな方法で都市を創造する努力がなされてきた。典型的な例は、16世紀に設立されたポーランドのザモシチ市である。ザモシチ は、ルブリン市から約80kmの高地に建設された。当時、通りや建物の特別なレイアウトのおかげで完璧な都市であった。
中心市街地が歴史的価値を持っている都市では、都市開発に制限が設けられている(市街地自体が世界遺産に登録されている都市も多い)おかげで、アジアや北アメリカのように殺伐とした摩天楼が林立してしまうような事態は免れた。第二次世界大戦の空襲で完全に破壊されたドイツの金融都市・フランクフルトや、中心市街地付近の廃墟をビル街として再開発したロンドン(ドックランズ)や、ベルリン(ポツダム広場)、ヨーロッパの玄関口に位置するロッテルダムなどは例外である。
フィンランドのピルカンマー県のタンペレは、世界で最も北にある主要都市の1つ。