郷挙里選
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こうした功の累積による昇進を功次といい、それに伴う異動を遷転という[18][19][20][21]

光禄勲(前漢初期は郎中令)の属官には郎官と呼ばれる4つの官職、すなわち、比六百石の議郎、同じく比六百石の中郎、比四百石の侍郎、比三百石の郎中、があった。郎官の本来の役割は禁衛として皇宮の警護をしたり皇帝の行幸に付き添うことだったが、それ以外には他にこれといった任務もなければ定員もなく、むしろ人事制度において特に重要な役割を果たした。というのも、次に重要な官職へと栄転するために待機しておくための職という意味会いが強くなったからである。このため、郎官として登用されることを特に郎選という[21][15]

地方の属吏ら百石以下の非勅任官が功次によって二百石以上の勅任官になるのは特に困難であり、最低でも比三百石の勅任官である郎中としてキャリアが開けるのは、それだけ有利だった[21]。前漢の前期においては、郎選からエリートコースを歩んだ官吏は、一度も県やの官職を経ることなく三公九卿となることができたのに対し、非勅任官である地方の属吏を出発点とした官吏は、功次によって六百石以上の地方の高官に出世することはできたが、それより上にはなれなかった。前漢後期になると、エリート官吏が県・道の長官や佐官を経る出世コースができたのに対して、非エリート官吏は四百石程度が限界となり、後漢後期ではそれすらも到達できなくなった[22]
郷挙里選によらない登用
任子・富貲・良家子など詳細は「任子」を参照「虎賁」および「羽林」も参照

結論から先に言うと、漢代に郎選の中核を担ったのは郷挙里選の孝廉である。しかし、そこに至るまでには様々な登用制度があった。南宋王応麟の『玉海』によると、漢代を通じて行われた郎選は、任子・富貲・献策・孝著の4種類あり[23]、これらの他にも実技を要求される良家子と射策の2つがある[24][21]。孝著は孝廉と同じ背景を持つのでこの節では詳細に扱わないが、王応麟が例として挙げた馮唐は孝廉が始まる前の人物で、厳密に言えばこれは孝廉でないので区別する。射策は博士弟子と対になる制度なので、郷挙里選の一種として次の節で扱う。
任子
二千石以上の高官がその任期を3年以上務めた場合、子か弟、つまり後継者を1人選んで郎官にすることができた。

蘇武(蘇建の子)の例: 武、字は子卿、少くして父任をもって兄弟並びに郎となり、稍ありて遷りて移中厩監に至る[25]

霍光霍去病の弟)の例: 時に年十余歳、光を任じ郎となし、稍ありて諸曹、侍中に遷す[26]
若年で就任するためか、郎官以外にも蕭育(中国語版)の太子庶子、馮野王の太子中庶子、汲黯の太子洗馬など、年齢の近い皇太子に関する役職に就く例があった。また、「1人」というルールは守られず、馮奉世は3人の子を、史丹は9人の子を任子とした[21]。漢代の人物伝で全く説明がなくいきなり「少くして郎となる」などとなっている場合は、前後関係からほぼ任子で説明できるケースが多く、あるいは外戚宗室などの記述が稀な身分による登用が省略された形と考えられる[21]

梁商(中国語版)(外戚)の例: 少くして外戚をもって郎中を拝し、黄門侍郎に遷る[27]

劉焉(宗室)の例: 焉は少くして州郡に任じ、宗室をもって郎中を拝す[28]

富貲
飢饉の対応などの名目で、一定の額を寄付した者を郎官にした。

司馬相如の例: 貲をもって郎となる[29]

献策
皇帝に政策を提案して認められた者を郎官にした。

劉敬の例: ここにおいて、上曰く「本より秦の地に都すを言う者は婁敬なり。婁は乃ち劉なり」。劉氏と姓を賜い、拝して郎中となし、号して奉春君となす[30]

主父偃らの例: 天子に書奏し、天子は三人を召見す。謂いて曰く「公等は皆、いずくにか在る。何ぞ相見ゆるにこの晩きや」。ここにおいて、上乃ち主父偃・徐楽・厳安を拝して郎中となす[31]

孝著
親孝行を理由に郎官とした。

馮唐の例: 唐は孝著をもって、中郎、署長となり、文帝に事う[32]

良家子
良家に指定されていた家から従軍させ、武術に優れた者を選んで郎官にした[24][21]漢陽郡隴西郡安定郡北地郡上郡西河郡の6郡の良家を特に六郡良家と言う。

李広(隴西郡)の例: 而して広は良家子をもって従軍して胡を撃ち、善く騎射を用い、殺首虜多く、漢の中郎となる[33]

馮奉世上党郡)の例: 武帝の末に至り、奉世は良家子をもって選せられ郎となる[34]
女子も良家子として女官に登用された。

竇皇后清河郡)の例: 竇太后、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫は良家子をもって入宮し太后に侍る[35]
この6郡は匈奴などと国境を接した尚武の土地柄で、文帝は六郡良家から才能のある者を集めて上林苑で軍事演習を行った[36]武帝が期門と羽林を設立すると、六郡良家子が「善騎射」・「能騎射」を枕詞に人員を供給した[37][38]

甘延寿(北地郡)の例: 少くして良家子の善く騎射すをもって羽林となる。投石抜距は等倫に絶し、甞みて羽林の亭楼を超踰す。これによりて遷りて郎となる。弁を試みて期門となるは、材力愛幸さるをもってす[39]
期門・羽林の人員は後に改称されて比三百石の虎賁郎・羽林郎となった。しかし、比三百石の勅任官でも郎官との扱いに格差があり、例えば、比六百石の羽林左監・右監は郎官から選ばれ、原則的に羽林郎からは羽林監の下の書記までしか上がれなかった[40]。その例外として、戦功によって羽林郎から秩石が同じ郎中へ昇進する場合がある。

董卓(隴西郡)の例: 桓帝の末、六郡良家子をもって羽林郎となる。中郎将張奐に従い軍司馬となり、共に漢陽の叛羌を撃ち、これを破る。郎中を拝し、絹九千匹を賜う[41]

辟召と徴召

これらに加えて、後漢では辟召と徴召の2つが有力な登用制度となった。もっとも、これらの制度自体は前漢の最初期から存在していた[21][42][43]
辟召
辟召は、高官の自由裁量による非勅任官の登用を意味する。したがって、地方の属吏らの登用も広義の辟召にあたり、前述のように、一般的には出世に不利な登用である。この広義の辟召の場合、史書で使われる字には「辟」以外に「除」、「請」、「補」、「署」などがあり、辟除や請署とも言う。属吏の肩書には官吏全体の序列である秩石に基づく卒史、属、令史、嗇夫などとは別に、職場内のみでの役割と上下関係を表す戸曹掾や決曹史など、いわゆる掾史の両方があって、秩石の序列には「除」や「補」で就任し、掾史には「署」として割り振られた[43][44]

黄覇の例: 後に復た沈黎郡に入穀し、左馮翊二百石卒史に補さる。馮翊、覇の入財にて官となるをもって右職に署さず、郡の銭穀計を領せしむ[45]
一方で、出世に有利な辟召も存在した。それは、丞相府、大将軍府など、最高級の高官が開いた公府(莫府)、または州府へ属吏として登用されることである。史書では「辟」の字はもっぱらこれらへの登用のみで使われるため、狭義に辟召といえばこちらを指す。非勅任官のため本籍地回避などのルールに縛られず、登用者の決定のみに基づいて採用され、大多数が百石にも届かなかった地方の属吏とは違って、例えば、大尉府の掾は比四百石と比三百石で、二百石の壁を越えていわば登用制度の抜け穴として機能して、その後の出世の糸口となった[42][43][44]


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