フランスでは二種の飛脚があった。パリで戸別配達をするプチポストは1760年に勅許を得たが、収益が裏目に出て接収されてしまった。これはリヨン等各地に導入されて、パリでは毎日六回も集配する手厚いサービスとなった。全国の主要駅路を走るグランポストもあった。19世紀はじめまで、人口ベースで約八割が飛脚の圏外にあった。改善は1829年から行われた[3]。
1840年1月、ローランド・ヒルの考案による均一料金郵便制度が英国で施行されたことにより、近代郵便の基礎が確立された。世界最初の郵便切手「ペニー・ブラック」の発行を伴ったことから、この郵便制度は通称「ペニー郵便制度」ともよばれた。トルコのコンスタンチノープルにあった、ドイツの郵便局。写真は1870年の絵ハガキ。1881年同地にオスマン債務管理局ができた。郵便制度は政治経済と不可分である。切手は1884年から発行された(英語による詳細)。2016年、第26回郵便連合会議がイスタンブールで催された。
1870年、フランスのメス市で国内初の航空郵便が実施された。
1874年には帝国郵便をもとに万国郵便連合が発足した。現在、これに加盟している郵便事業体間であれば郵便物を送り届けられるようになっている。それまでは各国の事情に応じて郵便事業が行われていた。連合の発足においてはタシス家の代表も署名に参加した。万国郵便条約により、郵便料金をどのように設定するのかとか、事業体間でどのようにお金の決済をするのかといった問題が解決された。
1909年、ドイツ郵便局は小口の口座振替を扱いはじめ、このサービスについてライヒスバンクと協定した。1910年にはオーストリア・ハンガリーの郵便貯蓄銀行、スイス小切手局、ベルギー国立銀行、そして1912年にはルクセンブルク中央銀行が、それぞれドイツ郵便局と協定した。ライヒスバンクは1883年からイギリスを手本に手形交換所を設けだした。これらは1913年で23ヶ所存在し、1912年に35億ポンド超の交換高を記録した。イギリスが150億ポンド超であるのと比べると少なくみえる。しかし、35億はネットの値であり、口座振替総額をグロスで加算すると220億ポンド超となった[8][注 2]。
1934年、第10回郵便連合会議(Postal Union Congress)がエジプトのカイロで開かれた。ここでの合意に基いて、国際決済銀行が実務を請け負い国際郵便振替がスタートした[9]。各国中央銀行の金口座を開設・連結することにより、万国郵便連合の郵便・電信・電話サービスに関する国際決済尻を清算する仕組みであった。原加盟国はドイツのほか、その孤立を狙う英仏とスカンジナビア諸国であった。郵便振替は1937年4月から行われ、扱い高でほとんど英仏のためのインフラとなっていた。しかし翌年末にスイスが参加してナチス・ドイツにも利用価値が出た。第二次世界大戦が始まると数年だけ郵便振替は休眠状態となった。
そんな折、ドイツによりチェコから切り離されたスロバキア共和国の傀儡政権が郵便振替の口座開設を申し出た。この可否をスイスポストがスイス国立銀行に問い合わせた。1942年9月10日付の照会に対し、国立銀行は開設できないと答え、ついでにスイスポスト内の国際決済銀行口座も閉鎖するよう忠告している[10]。勧告通りスイスポストがBIS口座を閉鎖したころに、国際郵便振替をドイツが利用しはじめた。1941年 - 1942年には決済件数23で金12.4キログラムの取引だったのが、1942年 - 1943年には34件で703.3キログラムとなり、1943年 - 1944年には30件で371キログラムの取引を記録した[11]。これら取引のうち2/3がドイツ帝国郵便からハンガリーポストへの支払で、残り1/3もドイツからだが支払先がトルコとアルゼンチンであった。
1962年、アジア=太平洋郵便連合(Asian Pacific Postal Union)が万国郵便連合憲章8条に基づき設立された。アジア・太平洋地域内における郵便業務に特有な諸問題の解決を図り、サービスをより便利にすることを目的とする。日本は1968年に加盟した。連合の最高機関である大会議は、通常5年ごとに開催される。
1980年ごろ、イギリス・カナダ間でインテルポストがサービスを開始した[12]。インテルポストは郵便とファックスを組み合わせた国際電子郵便である。1984年に正式にスタートし、2003年に廃止された。 各国の主たる郵便事業体(事業主)は次に示すようになっている。ただし、国ごとに国営・民営の割合は異なっている。国営という国もあれば、郵便のほとんどが民営の企業によって運営されているという国もある。
各国の郵便事業体
フランス - フランス郵政公社
オーストラリア - オーストラリア郵便公社