ドイツ騎士団国はマルボルクを築いた当初、飛脚を抱えていなかったので、騎士自らが伝令を務めた。急用でなければ僧院飛脚を利用した。やがて騎士の伝令は、ウィティングという土地の者と協力して飛脚網を張った[3]。
シュトラスブルクは10世紀 - 11世紀に都市飛脚を整えた。これは公私混用された。1322年の同市の都市法には市の書記局に勤務している誓約した飛脚が登場する。1443年の文書によると3名の飛脚がおり、2年毎に8エレの衣服用の布と毎年靴修理のための5シリングを報酬の他に受け取ることになっていた[5]。14世紀末のケルンでは公私独立した制度をもっていた。民間の方は市の中央に詰め所が設けられ、郵便ポスト兼郵便局となっていた。フランクフルトの飛脚は1385年で、アシャッフェンブルク・コブレンツ・ケルン・ジーゲンなどへ走った。騎馬飛脚はブレーメンやシュターデにも時間を守って往来した。飛脚の肖像が残っており、パスポート代わりに帝国の紋章をつけていた。文箱は木製だったり、ペットボトルサイズの壺に変わったりしたが、15世紀に銀製の箱になった。槍を携帯し、野犬と強盗から身を守る他に濠を飛び越えるのにも使った[3]。 近代郵便の原点は、1516年からドイツ・イタリアの名門一族の人物フランチェスコ・デ・タシス1世が、Thurn und Taxis
歴史
商業ルネサンス以降の商用飛脚は契約書等の交換を円滑にした。保険証券が交換されて海上保険が発達した。この中世すでに貿易決済をする銀行が存在し、これらの間を手形割引された輸出手形が往来した。銀行が割引で稼ぐ行為は第5ラテラン公会議で追認された。飛脚によって所要時間が相当に異なり、満期は鈍行に合わせて決められた。メディチ家やフッガー家は為替レートを調べるために高給の銀行飛脚を利用した。地中海/北欧の商業圏において結節点にあたるリヨンでは、年に四回開かれる大市が手形交換所となっていた。フランスの全209銀行のうち169行が参加し、エキュ・ド・マルクという仮想基軸通貨を用いて決済された。大市で決まった為替レートは銀行飛脚で知ることができた。フィレンツェ出身のジャン=バティスト・ヴェラサンという人物がリヨンの飛脚を取り仕切っていたが、リヨンの銀行家に訴えられた。このような銀行飛脚は教皇庁や国王の文書も運んだ[3]。
1657年にイギリス政府は郵便を国営事業にした[7]。これは1682年に後の事業と合体する。
ロンドンでは15世紀に外国商人が飛脚を運営していた。外国商人として、ハンザ商人・フランドル商人・イタリア商人がいた。1496年、イギリスとネーデルラントは通商条約を結んだ。両国の君主は、重商主義政策をとるヘンリー7世 と、帝国郵便の庇護者フェリペ1世であった。1514年、外国商人飛脚が設立された。これは条約に優遇されてイギリスの検閲を免れた。16世紀に王立取引所そばのジョージ旅館が拠点となって冒険商人飛脚が設立され、外国商人飛脚と競争した。17世紀に両者はイギリスのロイヤルメールに吸収された。ロイヤルメールは戸別配達をしなかった。1680年3月、ウィリアム・ドクラが共同出資者を募ってペニー飛脚(en)を始めた。4月に週一万通だったのが、翌年3月には三万通も売り上げた。切手はなく、収納印が用いられた。ペニー飛脚はロイヤルメールに目をつけられ、1682年に独占権の侵犯を理由に無補償で国有化されてしまった。