郵便報知新聞
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1913年(大正2年)の第一次護憲運動では政府系と見られて群衆の襲撃を受けた。1916年12月15日内閣交代を批判した社説「元老の宮中闖入」を掲載し、新聞紙法違反で発禁、告発された(主筆須崎芳三郎ほか1人、禁固3か月)。

1920年(大正9年)には現在も続く東京箱根間往復大学駅伝競走を創設した。

明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日時事國民東京朝日・報知)の一角を占めた。

1923年(大正12年)の関東大震災では社屋の焼失を免れたものの、その後は大阪を基盤に置く東京朝日や大阪毎日の傘下となった東京日日の台頭によって部数を減らすことになる。
買収・統合・再出発

1930年には講談社野間清治に買収され、販売方針を見直す等経営努力を重ねたが、結局振るわず1941年に講談社は撤退。一時政界引退を余儀なくされていた三木武吉に譲渡した。しかし、戦時下行われた新聞統合により、1942年讀賣新聞に合併された。「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は「讀賣報知」に改題された。当時の讀賣新聞社主である正力松太郎は、統合時に「従業員や読者の心情を鑑みて、報知の文字を残した」(「世紀を超えて 報知新聞120年史=1993年刊」)[2]としている。

この「讀賣報知」への統合を前に、1942年8月5日の報知新聞1頁「決別の辞」と題された、武藤貞一の寄稿には「70年の伝統を誇った我が報知新聞も、本夕刊[注釈 1]をもって、永遠に消えてなくなるのである。栄誉ある本紙は23584号[注釈 2]をもってここに終焉を告げた」[2]と、あたかも廃刊をしたような記述が行われていた。

第二次世界大戦後の1946年、有志が夕刊紙「新報知」を創刊して読売から独立し、1948年に「報知新聞」に題号を戻した[注釈 3]。しかし経営難から1949年には再び読売新聞の傘下に入る事となり、この年の12月30日より読売新聞系スポーツ紙として再出発することとなった。詳細は「スポーツ報知#沿革」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当時は夕刊のみで発行されていた
^ 戦後に夕刊紙「新報知」として復刊後は次の23585号から紙齢を再開している(東京と大阪の紙齢はこれに当たる)。なお讀賣報知に改題されていた時期は、読売新聞創刊当初からの号数を紙齢としてカウントし、これは分離後の読売新聞東京本社版に引き継がれている
^ 同様に経営統合で題字消滅した東京日日新聞も昭和20年代に類似の経過を辿っている。(1945年「民報」創刊、1947年「東京民報」に改題、1948「東京日日新聞」に改題。1951年娯楽主体に変更したが、1955年休刊)

出典^ 深田一弘「新聞におけるカラー印刷の進展と現状」『紙パ技協誌』第53巻第7号、紙パルプ技術協会、1999年、834-844頁、2019年11月4日閲覧。 
^ a b 大隈重信、原敬、犬養毅3総理輩出も、1942年に一度報知は「終焉」を告げた…創刊150周年 報知あの時(2)(2022年12月7日・スポーツ報知)

関連文献

国立国会図書館デジタルコレクション - 現下の非常時と報知新聞 : 帝都新聞界の大勢


関連項目

森田思軒

原敬 ‐ 1879年から1882年まで記者を務めた。

村井弦斎 ‐ 客員として連載を行う。のち正社員に。弦斎、遅塚麗水原抱一庵村上浪六との四人で「報知の四天王」と呼ばれた[1]

町田忠治 ‐ 1891年から一時記者を務めた。

野村胡堂 ‐ 1907年入社。編集局相談役まで務めた。

三田村鳶魚 ‐ 一時記者を務めた。

頼母木桂吉
^ 長山靖生『日本SF精神史 完全版』(河出書房新社)P.102


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