1971年、科学院院長と全国人民代表大会常任委員会副委員長を務め、ウマル・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』を翻訳していた縁から同年10月のパーレビ国王主催のイラン建国二千五百年祭典に招かれて出席予定だったが、当時中国に亡命していたノロドム・シハヌーク元カンボジア国王の中国北西部訪問や訪中したエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世の万里の長城訪問に同行したその前の過密な日程により疲労を訴えたことで代理の特使が派遣された[23]。1978年北京で病没。 郭沫若は、生涯に3度結婚した。
家庭
張瓊華(1890年?1980年)
1912年2月に結婚。当時の中国は現在と違って、男女の婚姻はすべて親が決めていた。婚礼まで男女双方とも面識が無いのが普通であり、この時もそうであった。張瓊華との婚約以前から、結婚を望んでいなかった郭沫若は、旧式結婚に対するせめてもの抵抗で、親に結婚に対する二つの条件を示していた。数年後、郭沫若の母親は彼に相談無しに張瓊華との縁談を取り決めてきたが、すでに何年も縁談を延ばしてきた中、これ以上母親を悲しませるのも忍びないと思った郭沫若はこれを受けるしかなかった。しかし、婚礼当日に相手の女性が条件を満たしていないと判り、騙された郭沫若はこの結婚を酷く後悔する。郭沫若は不本意な結婚をした5日後、学業を続けるため、愛することのできない新妻を家に置いて成都に戻った[24]。子もなく離婚もしておらず、法律上は張瓊華が郭沫若の正妻であった。張瓊華は1980年に死ぬまで郭家で生活した。
佐藤をとみ(1893年?1994年、宮城県黒川郡大衡村出身[25])
東京京橋病院
また、複数の女性と婚外の関係を持っていたとされる。 郭沫若の業績は非常に多岐にわたる。文学の代表作としては詩『女神』・戯曲『屈原』などがあり、中国古代史学においては西周時代を奴隷制時代とした『中国古代社会研究』など。甲骨文字研究では羅振玉に次ぐ大きな業績をあげ、羅振玉・王国維・董作賓とともに「甲骨四堂」と称されている[26]。日本の中島竦と旧知であり中島が所蔵していた甲骨200片を調べている。三国志関連では論文「替曹操翻案」を発表した。これは当時悪人扱いだった曹操の評価を改める大議論の契機となった。その際に発表された論文の数々は郭沫若のものを含めて『曹操論集』という書物に編集されている。 『屈原』は、1941年に起こった皖南事変によって国民党の主たる任務が抗日から反共に移行され、活動の自由を奪われた中で作られた、六部歴史劇の一つである。壮年期の屈原の悲劇を五幕で構成し作品にした。 『詩経』と『楚辞』は、中国古代が遺した、文学における貴重な産物であるが、後世への影響から言えば『楚辞』の方が大きい。『楚辞』の中の作品の圧倒的多数が屈原の作であり、中国歴代の詩人のうち屈原の影響を受けたことのない者は一人としていないと言える。その為、郭沫若も屈原の影響を受けた一人といっても過言ではない[27]。 郭沫若の処女詩集『女神』(1921年)は、五四運動前後の反帝反封建的時代の精神を反映し、芸術の独創性の鮮明さと斬新な自由体形詩をもって当時大きな影響力を与えた。その作品の中の「女神三部曲」の「湘累」に黒衣の屈原が登場する。また1935年には史的考証と文学鑑賞を兼ねた研究書『屈原』(後『屈原研究』と改題)を出版しており、郭沫若が屈原を題とした創作を試みていたことが分かる[17][27]。 史劇『屈原』は、時は戦国時代、楚の懐王16年、楚国の都郢を舞台に話が繰り広げられる。作品の第一幕は屈原と宋玉の対話から始まる。屈原は宋玉を想い、「橘頌」を送る。時同じく、張儀が秦国から受けた“斉国と楚国の国交断絶策”を失敗し魏国に赴くという報告を受ける[28]。第二幕では懐王の妃の南后が張儀と手を組み、屈原を陥れ、懐王からの信頼を壊す行動をとる。結果屈原は“気狂い”とされ信頼を失った[29]。第三幕で屈原のためと行なった招魂がまた屈原を怒らすこととなり、遂に失踪する。忠誠を誓っていた宋玉も王宮へ移ることとなる[30]。第四幕はただ一人屈原を信じていた侍女の嬋娟が屈原の後を追う場面が展開される。屈原も再び懐王に会って訴えるも聞き入れてもらえなかった[31]。結果第五幕で牢生活を送ることとなる。屈原と共に脱獄を図ろうとした嬋娟は、毒薬の入った酒を飲んでしまい死んでしまう。屈原は嬋娟を光明の使者と称えて弔う場面で幕を下ろす[32]。 『屈原』は昔の人物や事物に事寄せて作品の出来た当時を風刺している。皖南事変で、人民の国民党反動派に対する憎しみを巻き起こし、彼らの偽抗日・真反共や売国して敵に投降し、忠誠心を損なう罪悪な行動を激しく非難した。抗日戦下に、国党区の当時の首都であった重慶で上映され熱狂的な人気を呼んだ『屈原』は、戦後の日本でも1952年、1962年の二回に渡り公演され、独立と自由を求める日本人の共感を呼んだ[33]。 『十批判書 邦訳は『中国古代の思想家たち』として岩波書店から上下二巻で刊行されている。
業績
『屈原』
『十批判書』(中国古代の思想家たち)
《古代研究的自我批判》
《孔墨的批判》
《儒家八派的批判》
《稷下黄老学派的批判》
《荘子的批判》
《荀子的批判》
《名弁思潮的批判》
《前期法家的批判》
《韓非子的批判》
《呂不韋与秦王政的批判》
著作物
日本語訳
『支那古代社会史論』藤枝丈夫訳 内外社 1931
『青銅器研究要纂』田中震二
『北伐』松枝茂夫訳 改造社 1938
『海棠香国』村田孜郎訳 興亜書局 1940
『漂流三部曲』村田孜郎訳 聖光社 中国文芸叢書 1946