人口36,888人、面積565.12km²、人口密度65.3人/km²。(2024年5月1日、推計人口)
以下の2町を含む。 上記の2町のほか、1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。 矢板市、さくら市の地域は後に塩谷郡に編入されている。その他にも塩谷郡との境界変更が行われている。
那須町(なすまち)
那珂川町(なかがわまち)
郡域
大田原市
矢板市(沢、豊田、成田)
那須塩原市(三区町、四区町、上赤田、北赤田、井口、笹沼、無栗屋、洞島、高林、木綿畑、湯宮以東)
さくら市(下河戸、穂積、上河戸、南和田、金枝、鹿子畑)
那須烏山市
古代
景行天皇の時代?7世紀末 ?? 那須郡一帯にあたる地域は那須国造の支配する那須国であった。
7世紀末?大宝律令制定以前 ?? 奈須評もしくは那須評と表記していた。
評督は那須国造碑によると永昌元年己丑(持統天皇3年、689年)4月に那須評(7世紀末?大宝律令制定以前の那須郡の称)の評督になったという。
郡衙詳細は「那須官衙遺跡」を参照那須官衙遺跡(奧は栃木県立 ⇒那珂川町なす風土記の丘資料館)
この遺跡は那珂川と箒川の合流地点の近くの、箒川の形成した段丘上に位置する。昭和の初期より古瓦が散布することから寺院跡だと考えられ梅曽廃寺と呼ばれていたが、発掘により郡衙跡であることが分かった。1976年(昭和51年)に国の史跡に指定された。郡衙は南北200m、東西400?600mほどの範囲にあり、その中を溝で西・中央・東さらに南東の4ブロックに分けている。西ブロックは幅4m、深さ1mの大溝によって囲われた1辺約200mの不正方形で、倉庫と考えられる総柱式の掘立建物が多数見つかっていることから倉院と考えられている。中央・東ブロックは宅地になっている。中央ブロックからは礎石立ちの倉庫と考えられる建物が2棟検出されている[4]。東ブロックは実務を行う場所(事務官衙)であったと推定される。またこれらの南方には館や厨家があったと思われるが、このうちの館に関連する施設は南東ブロックにあったと考えられる。所有者(管理者)は那珂川町 他である[5]。 那須郡の郡寺は上記那須官衙遺跡の北方、那須郡那珂川町浄法寺下坪に位置する浄法寺廃寺(北緯36度47分12秒 東経140度06分33秒 / 北緯36.786750度 東経140.109111度 / 36.786750; 140.109111 (浄法寺廃寺)
郡寺
式内社「下野国の式内社一覧」も参照
神名帳比定社集成 この時代、郡内に本拠を置く領主達(交代寄合)は那須衆と総称されていた。 知行村数村名
社名読み格付記社名所在地備考
那須郡 3座(並小)
健武山神社タケムヤマノ小
温泉神社ユノ-小 ⇒[1]
三和神社ミワノ小 ⇒[2]
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中世以降
中世・江戸時代
近代以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は真岡代官所が管轄。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。(4町294村)
幕末の知行
幕府領幕府領46村片府田村、大神村、三斗内村/鷹巣村(三斗内村のうち)、中居村/八木沢村、練貫村、市野沢村、鹿畑村、三本木村、木曽畑中村、下大塚新田村、東沓掛村、西沓掛村、大原間村、山中新田、唐杉村、前弥六村、沼野田和村、東小屋村、北弥六村、上厚崎村、下厚崎村、長島新田(下厚崎村のうち)、上大塚新田、高柳村、木綿畑村、湯宮村、鴫内村、百村、油井村、細竹村、亀山村(現那須塩原市)、岩崎村(現那須塩原市)、金枝村、沼畑村、大沢村(現那珂川町)、小郷野村、一本木村、高畑村、大滑村、浄法寺村、●雲厳寺村、下滝村、両郷村、鍋掛村