邑の周囲には氏族共有の農耕地が展開し、集住地は版築などによる方形プランの囲壁である外城によって防御されていた。囲壁内には家屋だけではなく祖先を祀る宗廟と土地神を祀る社が置かれた。[1]邑の宗廟と社、さらに支配層の居住区と官衙は囲壁で囲われた南西の隅に置かれ、そこをさらに強固な囲壁である内城で防御した。内城で区画された領域が「城(ジョウ)」で神聖な領域とされたとともに有事の際には最後の防衛拠点とされた。邑の発展で外城の内側が手狭になると居住区を外側に広げて新たな外城を構築したが、それで間に合わなくなると外城のひとまわり外側を囲う外郭城を設けたり、外城に接して居住区を囲う別城を築いた。[3][5]
原初の邑の立地は水利や木材などの天然資源の立地に恵まれた丘陵地などであったが、社会の発展、人口増加などと共に黄河下流の華北平原など平原部に新たな邑が築かれていった。[5]
春秋時代の諸侯直轄の邑が「國」であったが、ここに居住する氏族共同体成員を「國人」と呼んだ。國の城壁から軍の1日行程の距離(1舎=30里)までが宗廟と社の霊威の及ぶ空間とみなされており、ここが「國」の境域である竟とされて門が設けられ、成員の出入りにすら祖先、「國」の先君、宗廟への報告が必要とされた。そのため、外部の者がここを通過するためには「道を假る」すなわち、それな りの礼物を揃えて相手に道を借りる礼が求められた。さらに戦に敗れてこの内側に攻め込まれて盟を結ぶことは「城下の盟
」と呼ばれて自國が戦勝國に対して自立性を失って國から鄙邑(属邑)に転落する屈辱的なこととされた。それ故に戦勝國が敗戦國の城壁から軍を1日行程退けて戦後処理の交渉に入る事が「一舎を退く」として双方の國が対等な立場で盟を結ぶ、礼にかなう事とされた。「國」の神官である「祝」は社稷が動かない限りはこの空間を出てはならず、例外的に國君が自ら外征する出陣に際して土地神の祭祀施設である社を祀り、犠牲の血を鼓に塗り、社主を奉じて國君と軍に同行した。[4]