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[2]この華北型の都市国家群で形成される社会を中江丑吉は「邑土国家」ないしは「邑制国家」と呼んで後者が普及したが、宮崎市定はこれを批判して全世界的に普遍的な都市国家段階の社会として考察を行った[6]

東周期、春秋時代から戦国時代への変遷はこうした邑のネットワークからなる都市国家社会から領域国家社会への発展期であったが、この変化に伴い邑は都市や集落一般を示すようになった。戦国時代の領域国家の時代から秦漢帝国の統一王朝の時期に出現した、聚、と称せられるものは邑の発展によって規模や性格が分化して成立したものである。こうした邑の後身の都市的集住地のなかでも県の雅称として邑を用いることが多くなっていく。[1]領域国家への発展とは邑の氏族共同体の解体による家父長的支配の台頭であった。まず同姓氏族の共同体は解体して氏族共有地を冠するという家族共同体の家父長的土地所有に解体した。同様に氏族共同体に強く拘束されていた諸侯がそこから次第に脱して家父長的支配者に成長した結果、戸に解体された氏族共同体成員の家父長を個別に直接支配するようになった。また、諸侯の私的な従属者から政務に当たる官僚が台頭してくることにもなった。こうして君主による専制が実現していくことになる。[2]

しかし、今日でも中国社会には邑制の社会に発した影響が色濃く残っている。前漢末期紀元前2年の統計で邑の伝統を引く県治とそれに準ずる統治単位が1,588であり、1,200から1,700という周代の邑の数に近似しており、このおよそ1,500の各種規模の都市を基盤とする社会が中国の歴史時代を通じて今日まで維持されている。[5]
構造

邑の周囲には氏族共有の農耕地が展開し、集住地は版築などによる方形プランの囲壁である外城によって防御されていた。囲壁内には家屋だけではなく祖先を祀る宗廟土地神を祀るが置かれた。[1]邑の宗廟と社、さらに支配層の居住区と官衙は囲壁で囲われた南西の隅に置かれ、そこをさらに強固な囲壁である内城で防御した。内城で区画された領域が「城(ジョウ)」で神聖な領域とされたとともに有事の際には最後の防衛拠点とされた。邑の発展で外城の内側が手狭になると居住区を外側に広げて新たな外城を構築したが、それで間に合わなくなると外城のひとまわり外側を囲う外郭城を設けたり、外城に接して居住区を囲う別城を築いた。[3][5]

原初の邑の立地は水利や木材などの天然資源の立地に恵まれた丘陵地などであったが、社会の発展、人口増加などと共に黄河下流の華北平原など平原部に新たな邑が築かれていった。[5]

春秋時代の諸侯直轄の邑が「國」であったが、ここに居住する氏族共同体成員を「國人」と呼んだ。國の城壁から軍の1日行程の距離(1舎=30)までが宗廟と社の霊威の及ぶ空間とみなされており、ここが「國」の境域である竟とされてが設けられ、成員の出入りにすら祖先、「國」の先君、宗廟への報告が必要とされた。そのため、外部の者がここを通過するためには「道を假る」すなわち、それな りの礼物を揃えて相手に道を借りるが求められた。さらに戦に敗れてこの内側に攻め込まれて盟を結ぶことは「城下の盟」と呼ばれて自國が戦勝國に対して自立性を失って國から鄙邑(属邑)に転落する屈辱的なこととされた。それ故に戦勝國が敗戦國の城壁から軍を1日行程退けて戦後処理の交渉に入る事が「一舎を退く」として双方の國が対等な立場で盟を結ぶ、礼にかなう事とされた。「國」の神官である「」は社稷が動かない限りはこの空間を出てはならず、例外的に國君が自ら外征する出陣に際して土地神の祭祀施設である社を祀り、犠牲の血を鼓に塗り、社主を奉じて國君と軍に同行した。[4]
脚注・出典[脚注の使い方]^ a b c 浅見直一郎 (1988), “ゆう 邑”, 世界大百科事典, 28, 東京: 平凡社, pp. 554-555, ISBN 4-582-02200-6 
^ a b c 西嶋定生「こだいしゃかい 古代社会 中国の古代社会」 11巻、平凡社、東京〈世界大百科事典〉、1972年、241-242頁。 
^ a b 尾形勇「城壁のある街 : 中国都城の景観(平成 10年度定例会発表要旨)」『立正大学人文科学研究所年報』第36号、立正大学人文科学研究所、1999年3月、72-73頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 0389-9535、NAID 110000219356。 
^ a b 斎藤道子「春秋時代の「国」 : 「国」空間の性質とその範囲」『東海大学紀要 文学部』第71号、東海大学文学部、1999年、75-89頁、ISSN 05636760、NAID 110001048446。 
^ a b c d 梅原郁 (1988), “とし 都市 【中国】”, 世界大百科事典, 20, 東京: 平凡社, pp. 276-277, ISBN 4-582-02200-6 
^ 呂超「宮崎市定の中国史像の形成と世界史構想」『関西大学東西学術研究所紀要』第49巻、関西大学東西学術研究所、2016年4月1日、353-376頁、ISSN 0287-8151、NAID 120005775454。 

関連項目

中国の歴史

黄河文明

夏 (三代)





環濠集落

環濠都市

版築

二里頭遺跡

殷墟

中国の新石器文化の一覧

中国の青銅器

仰韶文化

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二里頭文化

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