避諱
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その後清朝のときに雍正帝胤モフ諱を避けて「儀徴県」と改称し、さらに宣統帝溥儀の諱を避けて「揚子県」と改称された。清朝滅亡後、避諱の習慣がなくなると「儀徴」の名称が復活した。

日本での例

日本では貴人を諱(御名)で呼ぶことについては、中国と同様に実名敬避の習慣があった。たとえば天平勝宝9歳(757年)5月には天皇と皇后の名と、藤原鎌足藤原不比等の名を姓名に用いることが禁じられている。これによって姓(かばね)の首(おびと、聖武天皇の名)と史(ふひと、不比等)は「?登」(ひと)に改められた[注釈 7][2]。また常陸国の「白壁郡」や「大伴氏」は天皇の名をはばかって(光仁天皇の名白壁、淳和天皇の名大伴)改名されている。源氏物語の登場人物もこうした風習を反映し、貴人の実名は徹底して伏せられている。このため貴人を呼ぶ際には官位名や居住所などを実名呼称の代わりとした。室町時代以降は、屋形号から「お屋形さま」、将軍の正室を「御台所」、こうした居住所からの敬称が派生した。近代の皇室典範制定後は、后位敬称となり受け継がれている。

ところで、日本には避諱とは全く逆の現象として 通字 の習慣がみられ、さらに鎌倉時代から江戸時代武家社会などでは、主君の諱の字を家臣が拝領する偏諱授与の風習が存在した。貴人の諱を避けることを強制するのではなく、むしろ諱の一字を嫡流の子孫や近しい家来に賜与することで集団の緊密化を図ったのである。中国や朝鮮のような避諱の風習はさほど定着せず、対してそれに代わる通字や偏諱の文字の使用には慎重さが求められた。上位の貴人から与えられた偏諱を、さらに自身の家来(陪臣)に与える行為は原則的には控えられ、また後述の方広寺鐘銘事件で徳川家康が激怒したのはもっともだとする見方もある。ただし江戸時代など儒教の影響を強くうけた時代では、一部に避諱が行われている。

永承7年(1052年)、当時の奥州で勢力を誇っていた安倍頼時は本来「頼良」と名乗っていたが、朝廷の命で陸奥守として赴任してきた源頼義に帰順した際、同じ読みであることを遠慮して「頼時」へと改名した。

大坂の陣においては、豊臣氏の依頼によって作成された方広寺の鐘銘「国家安康」が、徳川家康の諱を侵した犯諱であるということで方広寺鐘銘事件が発生した。

江戸時代李氏朝鮮とのあいだでは朝鮮通信使による国書の往来が行われていた。正徳度には日本の国書が中宗の諱「懌」を犯したと朝鮮側からの抗議が行われた。新井白石は朝鮮側の国書も「光」(徳川家光)字を犯しているとし、国書の訂正を受け入れなかったため論争となった(国諱論争)。

徳川綱吉は娘である鶴姫を溺愛し、貞享5年2月1日(1688年3月2日)[注釈 8]に庶民に対して鶴の字や鶴紋を用いることを禁じた「鶴字法度」を出している。このため井原西鶴は井原西鵬と改名することになり、京菓子屋の鶴屋も屋号を駿河屋と改名した。歌舞伎中村座定紋丸に舞鶴から角切銀杏に改めている。また仙台藩では1667年頃から禁字法令が出され、伊達氏の通字である「宗」や、歴代当主の諱の字の使用を禁じた。

江戸時代後期、漢学が盛行し、天皇権威の回復が試みられる中で、公家社会では天皇の諱に用いられる文字に対して欠画が行われるようになった。この欠画の禁令は光格天皇の天明5年(1785年)に始まったものである[3]避諱欠画令参照)。幕末期の文久3年(1863年)には、大名・旗本から庶民に至るまで当代の天皇の諱字を避けるよう、幕府から命令が出された(文久避諱令)。欠画の規定は明治初年にも引き継がれ、仁孝天皇(恵仁)、孝明天皇(統仁)、明治天皇(睦仁)の諱の内、「恵(惠)」、「統」、「睦」がそれぞれ欠画とされたことがあったが[4]、明治5年には廃止された[5]。明治6年3月28日に交布された太政官布告118号により、歴代天皇の諱と御名に使用されている文字を使うこと自体は問題がないとされ、熟字のまま使うことのみ禁じられた[6]。この太政官布告は昭和22年の戸籍法改正で正式に廃止された。

秩父宮妃貞明皇后の名「節子(さだこ)」に遠慮して「節子(せつこ)」の名を「勢津子」と改めた。諱ではないものの、笠置シヅ子三笠宮に遠慮して「三笠」姓から芸名を改めている。またやしきたかじんは出生後に隆仁(たかひと)と名付けることを勧められていたが、皇室尊崇者である父親は「陛下と同じ読みとは畏れ多い」という理由で同じ字のまま読みを「たかじん」と変えて命名したという[注釈 9]。しかしこれらは人名の衝突を避けているだけで、文字の使用そのものを避けているわけではない。

詔書の朗読の際には、詔書末尾の天皇の署名と御璽の押印は、署名そのものを読むのではなく「御名御璽」と読む慣習がある。

ベトナムでの例阮朝避諱の例

ベトナムでも避諱は行われたが、字だけでなく音も変えさせることがある点に特色がある[7]

李朝以前の諸王朝では避諱の存在は確認されておらず、最古の史料は陳太宗建中8年(1232年)に出された令である。仏領期にも阮朝が存続していたため避諱自体は公文書を中心に維持されたが、植民地期の皇帝の諱は避けられなかったようである。

避諱の方法は中国で行われた改字・空字・欠画のほか、次の方法がある。

偏と旁を転倒させる。このタイプの避諱ではしばしば字の上に「く」もしくは「人」形の記号を3つないし4つ並べる。これはもともと避諱の対象となる字を示すときに割注で「右従○、左従×」と表記していたため、この従字を簡略化したものである。

この変形として陳朝の陳字を分解して阿東と表記することも行われた。

欠画の変形として偏を削除・塗抹する。


鄭氏政権時代には、鄭氏の王号の一部も避諱の対象となった。例えば清都王鄭?の清字は避諱の対象となっている。

黎朝期に提も避諱字とされて題が代わりに用いられたが、これは科挙の試験官である提調官に由来する。

日常で頻用される漢字が避諱字となった場合、その漢字の発音も変えられた。現代まで残っているものとして利l?i(黎朝太祖黎利の諱:本来の音はli)、時th?i(阮朝嗣徳帝の諱:本来の音はthi)などがある。

阮朝皇帝家本宗は代々阮福○と名乗っていので、福(本来の音はphuc)はph??cと改音させられたが、字自体の使用は認められた。また、ph??cの音は北部では普及しなかった。


宗tong(紹治帝の幼名)は尊tonと改められた。中南部方言では語末の-nと-ngの区別が無いために発音上は変化がないものの、クオックグーの表記上は区別する。だが、阮朝期を通じて互用された結果か、北部も含めて表記にも影響を与え、現代ベトナムの学術文献でもたとえば黎聖宗がLe Thanh ton(漢越音に従えばLe Thanh tong)と表記されることがしばしばある。

朝鮮での例

中国と同じく儒教の影響を色濃く受けた朝鮮でも避諱の習慣は堅く守られた。王の名前はもちろん、自分の先祖の名前の文字もはばかられた。そのため子が生まれると、族譜を引用し、先祖の名を確認してから、先祖の名に使用されていない文字で命名を行った。
避諱に類似したもの

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年8月)


北朝鮮文字コードKPS 9566には普通のチョソングル(ハングル)とは別の位置(4行72列 - 4行77列)に初代最高指導者・金日成(???)、第2代最高指導者・金正日(???)の名前専用に使われるチョソングルが登録されている。普通のチョソングルと異なり、常に太字で表記される(文字コードには登録されていないが、第3代最高指導者・金正恩 (???) も同様)。避諱に類似しているが、名だけでなく姓も対象となっていることや、指導者の名前に使われている文字を含む言葉を変化させるのではなく、指導者の名前自体の文字のほうを変化させているという相違点がある[8]

参考文献

陳垣『史諱挙例』(上海書店出版社、1997年6月) .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 7806222529


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